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きょうのことば

きょうのことば - [2020年08月]

多聞とは、謂く、義に於いて善くするにして、言説に善くするには非ず

「多聞とは、謂く、義に於いて善くするにして、言説に善くするには非ず」
『楞伽阿跋多羅宝経』(『大正新修大蔵経』第16巻 507頁)

  『ランカーヴァターラ・スートラ』は、ランカー島(スリランカ)を舞台としていることからその名が付いている経典です。この経典には3種類の漢訳が現存し、そのうち最も古い求那跋陀羅(ぐなばっだら)(394–468)による訳『楞伽阿跋多羅宝経(りょうがあばったらほうきょう)』の中に、標題のことばはあります。

  大乗仏教の様々な教説が盛り込まれているこの経典では、言語表現を超越したところに真実が存在するとの考えが、たびたび表明されています。例えば、その前半で、大慧(だいえ)菩薩が空性(くうしょう)に関する諸概念について説明を求めます。仏はその問いに詳細に答えた上で、こうした教えはどのような経典にも説かれていると述べます。しかし、それは、衆生の望みに応え、凡夫たちを喜ばせるためのものだと解き明かします。その上で仏は「真実は言説に在るにあらず」と断言し、「言説に著(ちゃく)すること莫(な)かれ」と、言語表現に執着してはならないと述べます。

  さらに終盤で、仏は、言語表現の中に意味があるとの考えを否定します。そもそも、言語表現で用いられる言葉は、文字に頼らざるを得ず、それゆえ失われる可能性を持っています。一方、意味は、文字に頼る必要がなく、失われません。これを十分に理解している如来は、法(教え)を一文字も説かないと言うのです。文字により真実は説かれません。そこで仏は「義に依りて文字に依らざれ」と、文字や言語表現よりも意味をよく考えよと戒めます。そうしなければ、真実を指差されても、指ばかり見て、指そのものが真実だと考える愚者のようになると言うのです。

  このように、言語表現に執着することは妄想を生み、「生死(しょうじ)」という迷いの生存に私たちを陥れます。一方、迷いを離れた「涅槃」は、真実を理解することによって得られます。そして、その真実は、「多聞」によって得られると説かれています。では「多聞」とは何でしょう? その答えが標題のことばです。「多聞」とは、数多くの知識を聞き知っているということではありません。言語表現に巧みなことでなく、意味に巧みなことなのです。このことばに続き「義に善くすれば、一切の外道の経論に随(したが)わず」と述べられていることから、意味に巧みなこととは、言語表現にとらわれず疑問を持ち、過ちに陥ることなく意味をよく考える姿勢だと言えるでしょう。

  8世紀インドの密教学僧ブッダグヒヤは、『チベットの王・臣下・僧たちに与えた書』の中で「賢者は本質として義に巧みなり。語に巧みなるは鸚鵡(おうむ)返しの上手なり」と、言語表現に巧みなことを、「鸚鵡返し」つまり、他者の説を鵜呑みにしてそのまま語ることに喩え、戒めています。一方、意味に巧みなことは、これに対比され、賢者の本質と述べられています。様々なことばに満ち溢れている今、そこで語られていることを問い直し、本質について深く考えた上で発信していく姿勢の必要性を、標題のことばは説いていると言えるでしょう。
 

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