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きょうのことば

きょうのことば - [2018年06月]

諦(あきら)かに聴け、諦かに聴け、善(よ)く之(これ)を思念せよ。

「諦(あきら)かに聴け、諦かに聴け、善(よ)く之(これ)を思念せよ。」
『長阿含経』(『大正大蔵経』第1巻 1頁)

  標題のことばは、仏教経典の中で特に重要な教えが語られる場面に、いわば「目印」として置かれた定型句(決まり文句)です。聴き手に対し、「ここからが重要なポイントです」「今から語られることを聞き逃してはなりません」と注意を促す役割を担っています。かつて古代インドの仏教世界では、説法師と呼ばれる弁舌巧みな僧侶が聴衆に向けてお経を語り聞かせたそうですが、説法の場において説法師がこのことばを切り出すや否や、聴衆はおそらく、雑念を振り払い、意識を集中し、その教えに耳を澄ませたことでしょう。

  「聴く」といういとなみは、学びの出発点であると同時に、実は困難なことでもあります。経典のことばを巧みに解釈したことで知られる世親(せしん)(5世紀頃のインドの僧侶)は、この標題のことばは3種の聴き手を想定して述べられたものだと言います。3種の聴き手とは、「教えを聴こうとしない人」「教えを聴いても勝手に誤解してしまう人」「教えを聴いてもすぐに忘れてしまう人」です。標題のことばにある「諦かに聴け」「諦かに聴け」「善く之を思念せよ」という3つの句は、それぞれの聴き手に対応しています。

  続けて世親は、3種の聴き手を「器(うつわ)」に例え、それぞれ「口がひっくり返っていて中に水が入らない器」「中が汚れていて、入った水も汚れてしまう器」「穴が空いていて、水が漏れてしまう器」と表現します。ここでの「水」はブッダの教えを指していますが、そのなかでも「中が汚れていて、入った水も汚れてしまう器」に例えられる「教えを聴いても勝手に誤解してしまう人」こそが最も厄介だと言います。「諦かに聴け」ということばが繰り返されている理由も、この点に見出されます。つまり、自分が持ち合わせているあり合わせの知識と経験だけで「これが答えだ」と誤解してしまうことが、学びを妨げる大きな要因として捉えられているのです。

  それでは、そうした誤解にとらわれないためにはどうすればよいのでしょうか。それは、何度も何度も聴き、聴き続け、聴いたことを考え続けるほかありません。仏教において真の知識人が「多聞(たもん)」と称されるように、自分自身の誤解を解くためには、その歩みを止めることなく学びを続け、自分という「器」の汚れを拭き取り、空いている穴を塞いでゆくことが求められます。そうした姿勢を維持することの重要さと困難さとが、標題のことばによって指摘されているのです。

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