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きょうのことば

きょうのことば - [2019年10月]

一分は師より受け 一分は友に因り得 一分は自ら思惟し 一分は時の熟するを待つ

「一分は師より受け 一分は友に因り得 一分は自ら思惟し 一分は時の熟するを待つ」
『成実論』(『大正新脩大蔵経』32巻 大正一切経刊行会 359頁)

  標題のことばは、仏教において禅定と呼ばれる瞑想を修める際の指針とされるものですが、もっと広く、私たちが何かを学ぼうとするときに大切な四つについて語られたことばと受けとめることもできるでしょう。大切な四つとは、学び方を授ける師、共に学ぶ友、自ら学び思索する習慣、そして、学びをあたためる時間です。

  学びの場においては「師」の存在が決定的に重要であることは言うまでもありません。古代インドの仏教では、正式に出家受戒する前の見習いの者は、和尚(あるいは和上)と呼ばれる年長者から長年にわたり一対一で指導を受け、日常生活から学問のことにいたるまで様々な作法を学んだといいます。その師弟関係は厳格な上下関係にありながらも、無批判な服従を前提としたものではなく、仮に師が道を誤った場合は弟子がそれを正さなければならないという、緊張を伴うものでした。弟子はそうした和尚に学ぶと同時に、他の先生(科目別教師)からも教育を受けたのですが、そこで共に学ぶ「友」もまた重要な存在であったことでしょう。学友の姿を鏡として自身の姿をかえりみれば自分ひとりでは気づけないことにも気づくことができ、学友と切磋琢磨する過程で自身の長所を見出すこともできます。そして、そうした師と友がいて、その両者に触発されてはじめて、人には「自ら学び思索する習慣」が培われるのです。自らの学びを深めるためには、師と友の存在は不可欠であるとさえいえるのではないでしょうか。

  標題のことばの中で興味深いのは、「学びをあたためる時間」が最後に置かれている点です。どれほど意義のある教えであっても、学び手の中に課題がなければその重要性に気づくことはできません。一方で、長い時間をかけて経験を重ねてみると、「ああ、先生が言っていたのはこれだったのか」と腑に落ちることがあります。あらゆる学問は、すぐに答えを出すことができない(あるいは答えのない)課題に向き合わなければならない点で共通しています。学び手がそうした課題に真剣に向き合うならば、時間をかけて思索し続け、学びと経験とを練り上げる以外に手立てはありません。

  師を得て、友を見つけ、ひとり思索を重ねつつ、それぞれの現場で学びをあたためる。そうした順序を描く標題のことばは、かつての学び手がやがて教える側になるという円環構造の上に成り立っています。これまでも、そしてこれからも、このようにして学びの輪が広がってゆくのではないでしょうか。

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