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きょうのことば

きょうのことば - [2017年11月]

至(し)徳(とく)の風静かに衆禍(しゅか)の波転ず。

「至(し)徳(とく)の風静かに衆禍(しゅか)の波転ず。」
親鸞『教行信証』行巻 (『真宗聖典』192頁)

 標記のことばは、鎌倉時代の仏教者である親鸞(1173-1262)の主著『教行信証』に出てくることばです。親鸞は幼くして出家し、比叡山で苦しみを超える道を実現するため、苦しみの因となる煩悩(貪り、怒り、自己執着の心等)を断つ修行に励みました。しかし、煩悩を断じようとすればすれほど煩悩を断ち切れない自己の現実を自覚するほかなく、29歳の時比叡山の仏道から離れ、山を下ります。その後、生涯の師となる法然との出あいを通して、自身の拠り所を見出し、90歳の人生を生ききっていきます。親鸞が師・法然から教えられた道、それは念仏の教えです。

 念仏とは、いきとしいけるものを苦しみから超えさせるために、我が名をとなえた者を誰一人見捨てることなく平等に浄土(苦しみを超えた世界)に生まれさせると誓った阿弥陀仏の願いにうなづき、「南無阿弥陀仏」と称えることをいいます。標記のことばは、この念仏のはたらきについて記したものです。意訳すると次のようになります。

 功徳(すばらしいはたらき)のきわまりである念仏は静かな風のようであり、絶え間ない波のごとく起こる無数の困難な出来事を転じていくのである。

 親鸞が生きた中世の日本は、自然災害や戦乱等により人が生きるには極めて過酷な状況が繰り返し起こりました。そのような困難な出来事を転じていくと親鸞は語りますが、これは一体どのようなことなのでしょうか。

 思いも寄らない困難な出来事が起こったとき、人の心はどのように動くでしょう。この時私たちはとっさに「どうすれば苦しみが無くなり早く楽になれるだろうか」と考えていないでしょうか。もしこの心の動きにだけ従うなら、一時の楽しさで苦しみを忘れようとしたり、あるいは別の何かで自分の抱えた苦しみを埋め合わせようとするのではないかと思います。しかしそれは結局苦しみの因を見つめることなく、それをごまかす生き方であるといわざるをえません。よく考えてみると、これは誰にでも起こりうる課題であり、どれほど大きな力でも自分以外の誰かに解決してもらうことのできない問題です。

 親鸞は念仏のはたらきを静かな風に譬えています。それは、激しい嵐のような状況を生きることになっても、念仏の静かな響きが人間の本質的な課題を教え、さらに人の帰るべき立脚地を気づかせるからです。そのことを通して、大きな困難をも豊かで深く生きるための糧へと転じ変(か)え成(な)していく、それが親鸞の出あった念仏のはたらきなのです。

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