きょうのことば - [2013年05月]
「和らかなるをもって貴しとし、忤うること無きを宗とせよ。」
聖徳太子『十七条憲法』(『真宗聖典』963頁)
新年度を迎えてから、早やひと月ほどが過ぎました。そろそろ新しい人間関係にも慣れてきた時期でしょうか。しかし、いまだに様々な関係になじめず、落ち着かない気持ちでいる人も多いかもしれません。
私たちは、誰でも、みんなと仲違(たが)いせず、仲良く生きていきたいと願っています。しかし、同時に、本当の意味でみんなと「和」して、仲良く生きることは難しいものです。それはどうしてなのでしょうか。冒頭の言葉に続いて聖徳太子は、次のように述べています。
人 皆(みな) 党(たむら) 有(あ)り。また達(さと)る者(ひと)少(すく)なし。ここで太子は、自分の身の回りについてのことも、その中にいる自分自身についてのことも、よくわからないままで、自分に気の合う仲間を作ろうとすることが、みんなと仲良くできない理由なのだと言っています。
(人は誰しも自分に気の合う仲間を作りたがるものだ。そして同時に、ものごとの道理を良くわかっている人は少ないものだ。)
私たちは一人では決して生きられませんから、友だちの大切さは、誰もが感じていることだと思います。一緒に楽しく過ごしたり、時には悩みを打ち明けたりする中で、一生の友を得るような大切な出会いも経験します。しかし、私たちは時として、せっかく友だちや仲間と一緒にいても、その人たちと本当に仲が良いと思えないこともあります。
そこには、常に自分中心の、相手と「和」してゆこうとしない、どこまでも「忤」らおうとする思いが渦巻いています。みんな、それが本当の仲良しではないことに気づいていながら、そうした関係をやめることがなかなかできないのです。
太子の言う道理とは、そのような私たち人間の、どこまでも自分中心の楽しさだけを求めようとするあり方を、深く考えさせる存在でした。そして、そのような自分自身のあり方が照らし出され、知らされた時に、はじめて、「みんなと共に生きている」ことの尊さが知らされるのだ、そのことが本当の「和」らかな関係を築いてゆくのだ、と太子は言っているのです。
自分を中心に置いた上で、他の人のありようにばかり目を向ける私たちの心は、なかなかに手ごわいものですが、日常のさまざまなつながりの中で知らされる、自分のあり方を深く照らし出すはたらきの大切さと、「共に生きよう」といういのちの願いのあたたかさを感じつつ、和らかな心で歩んでゆきたいものです。