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人間・清沢満之シリーズ

人間・清沢満之シリーズ - [11]

愚直

「愚直」
村山 保史(准教授 哲学)

 浩々洞での活動を進めながら、清沢は真宗大学の学監(学長)に就いている。白川党による改革運動を経験した宗門は京都の学寮から大学を分離して東京に移設すべきとする清沢の意向を容れたのである。

 移転開校式は1901年10月に行われた。当時、明治政府は富国強兵を担う人材育成のために国家的教育を進め、文部省は宗教教育を禁じていた。来賓挨拶で貴族院議長の近衛篤麿(このえあつまろ)は対外膨張政策への協力を求め、帝国大学の井上哲次郎(いのうえてつじろう)は仏教と僧侶を批判した。一方、僧衣で壇上に立った清沢は、真宗大学が他とは異なって宗教教育を行う学校であり、「我々に於て最大事件なる自己の信念の確立の上に其(その)信仰を他に伝える……人物を養成する」とし、国家政策の推進者に対してあえて帝都で、個の確立を基礎にする別の価値観を示したのであった。「真宗大学要覧」には巣鴨宮仲が「霊性(れいせい)の修養を事とするもの須(すべか)らく択(えら)みて<選び>止(とどま)るべきの地」と記されている。

 大学は予科と本科、研究院からなり、本科には特に親鸞の思想を学ぶ一科、親鸞に加えて広く仏教を学ぶ三科が置かれた。どの科も仏教系科目と哲学系科目、英語を必修とした。ここには清沢の学業の過程があとづけられ、親鸞の思想を近代的な学問大系に位置づけて真宗大学を「世界第一の仏教大学」にしようとする構想が反映されている。予科の教師には佐々木、多田、曽我量深らの若手も登用された。

 こうして新しい歩みをはじめた大学であったが、まもなく騒動が生じている。大学を文部省の認可学校にすること、若手ではなく著名な教授を招聘すること等を学生が求めたのである。不満は、病身の清沢から大学運営を一任されていた主幹、関根仁応に向けられた。

 若手教師への不満、主幹への不満、不満を抱いた学生たちの未熟--清沢にとってはすべて自分が負うべき問題であった。1902年10月、関根の引責辞任を追って清沢も大学を辞した。清沢の辞職に驚いた学生たちは連名の請願書で慰留を試みたが、翌月には東京を後にしている。信じるものを守ることに〝愚直〟なほどの一途さを、彼は永則とタキから受け継いだのであった。

(『文藝春秋』2014年3月号)

※3月に発売される『文藝春秋』2014年4月号のタイトルは「信ずるは力なり」です。

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