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人間・清沢満之シリーズ

人間・清沢満之シリーズ - [09]

浄土

「浄土」
村山 保史(准教授 哲学)

 病は重さを増していた。そのまま西方寺で尽きるとみえた清沢の生涯であったが、転機が訪れる。次期法主の大谷光演(おおたにこうえん)から上京の要請があったのである。改革運動の同志だった近角常観(ちかずみじょうかん)からの強い要望もあって、清沢はこれを受けた。こうして船は再び東に向けて動きはじめる。

 1899年に清沢は単身、本郷に移っている。そこでの生活には彼を慕う若者たちが加わり、やがて「精神主義」という思想ないし生き方を共有する「浩々洞」という共同体となっていった。1901年1月には機関誌『精神界』が発行され、11月には「精神講話」がはじまっている。この講話は内村鑑三(うちむらかんぞう)による聖書研究会とともに、宗教に関心をもつ青年の人気を二分したという。

 日清戦争以降、近代国家における〝国の民〞とはなにかを問う風潮が強くなっていた。自分はどこに立っているのか、いや、そもそも自分とはなにか--精神主義は、絶対無限者との関係のなかで自らの立ち位置を確認して安心を得るまでの生の過程を意味したが、それは、自己への問いに煩悶する当時の青年たちの要求から生じた。無数の人間が関係する社会のなかで生じる数限りない責任をひとつ残らず背負うことはできないという誠実さゆえの苦悩は、かえって、そのような自分でさえも生かしている存在や働きへの気づきとなるのである。

 浩々洞の運営の中心となったのは「浩々洞三羽烏」と呼ばれた佐々木、暁烏、多田であった。同じ宗教共同体に属しつつも、佐々木は理詰めで考え、暁烏は人間より大きなものとの関係へと突進し、多田は人間関係の善悪に心を砕いた。三人はそれぞれ、清沢の性質を分けもつ有機体の一部のようであった。「われほどの感情のつよき人は世に多からじ」。清沢は情の人であったが、強い情を統制しようとするとき、知や意も大きな力として現れた。

 個人の自律を重んじるのが洞の方針であった。浩々洞には、同じ過程を生きる者たちの自由な議論と笑いがあった。桜が春を彩り、蝉が鳴き、金木犀(きんもくせい)が香った。紅白の山茶花(さざんか)が咲いた。「我等の此の世に於ける浄土なりき」と多田が表現したように、そこは青年たちの浄土なのであった。

(『文藝春秋』2014年1月号)

※1月に発売される『文藝春秋』2014年2月号のタイトルは「責任」です。

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