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人間・清沢満之シリーズ

人間・清沢満之シリーズ - [05]

実験

「実験」
村山 保史(准教授 哲学)

 1888年、財政難の京都府は、京都府尋常中学校(後の京都府第一中学校、京都府立洛北高等学校)の経営を東本願寺に譲渡している。

 江戸時代以来の僧侶養成機関である学寮の兼学科も併設したその学校の校長として選ばれたのは清沢であった。当時、京都の宗門は魔界のように言われていたが、清沢は決然として京都に向かった。

 尋常中学校長は京都府知事をしのぐ高給職であった。西洋哲学を学んだ青年は広い屋敷に住み、山高帽にモーニングコート、ステッキの洋装で京の街を闊歩した。香水をつけ、西洋煙草をくゆらせ、人力車で学校に通った。中学校に加えて学寮でも授業を担当した。『日出新聞(ひのでしんぶん)』の投票企画で京都の学者三傑に選ばれたのは、ちょうどこの頃である。校長就任の翌月には東本願寺執事の渥美契縁(あつみかいえん)の仲介により、三河大浜の大刹、西方寺の次女やすと結婚している。

 人生航路を東京に向けていた清沢に大きく西へと舵を切らせたのは、宗門への報恩の念と宗教教育への希望であった。帝国大学の研究者や国家の官僚となる道ではなく宗教者として宗教教育の教育者となる道をとったことは、世間的な出世の道に代えて宗教的な出世間(出家)の道を第一義にしたことでもあった。仏典では、釈迦が釈迦族の王位継承権と驕奢(きょうしゃ)な生活を捨てて苦行をはじめたことが伝えられるが、出家者としての清沢も厳しい修行をはじめる。

 1890年には稲葉昌丸(いなばまさまる)に校長を譲って一教諭となり、生活を一変している。妻子は大浜に帰した。煙草や肉食は止め、髪を剃り、袈裟に下駄の姿で歩いた。翌年に篤信の母タキが他界するとますますこの傾向は強まり、煮炊きを止め、塩も絶った。そば粉を水で練ったものを食し、松脂(まつやに)をなめて暮らすまでになった。一方で、盛んに仏典を読み、『歎異抄』にも親しんだ。

 こうした禁欲生活を清沢は「Minimum Possible」(可能な最低限)と呼んでいる。出家者として極限の生活を「実験」、つまり実際に体験しようと試みたのである。禁欲は体力低下による結核の発病をもたらした。徐々に身体を蝕んでいくこの病によって、その後、清沢は迫り来る死を実験することになる。

(『文藝春秋』2013年9月号)

※9月に発売される『文藝春秋』2013年10月号のタイトルは「決心」です。

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