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人間・清沢満之シリーズ

人間・清沢満之シリーズ - [02]

転換期

「転換期」
村山 保史(准教授 哲学)

 薩長両藩と欧米諸国が砲火を交え、薩英戦争が勃発しようとする幕末期の文久3(1863)年6月、名古屋の黒門町に清沢は生まれている。

 名古屋は尾張徳川家の地で、幕府とつながりをもった真宗大谷派の勢力地であった。生家は真宗門徒であり、父は尾張藩藩士、母も藩士の娘である。武士の教養として儒教に触れた父の永則(えいそく)は禅にも親しみ、剛直で、意に反することは頑として容れなかった。一途な性質の母タキは真宗信仰に篤く、仏法の「薄紙一重(うすがみひとえ)がわからぬ」が口ぐせであったという。この両親のもとで育ったことは、生涯にわたって影響を及ぼすであろう。

 勉学は、6歳の私塾入塾にはじまる。私塾は維新後の学制変化のなかで「義校」に移行し、義校は「小学校」と改称された。優秀であったせいか、あるとき、教師から他の生徒を教えるよう求められたが、「一生徒であるから、他の生徒を教える資格はありません」と固辞した。教える者と教えられる者を峻別する傾向は、清沢が教える側になってからも保持される。

 小学校卒業後は、愛知外国語学校(後に「愛知英語学校」と改称)に入学した。ここでは英語を学んだが、学校は維新期の動乱が国家財政に与えた影響もあって廃校となり、医学を志して籍を置いた愛知県医学校も短期間で退学している。医学校を退いた理由には経済的事情があったことが推測される。幕府側の出自をもった生家の廃藩置県後の暮らしは容易ではなかったのである。

 進路を失った清沢が知ったのは育英教校であった。それは、新来ないし新興のキリスト教や神道に対抗して宗派を担う人物育成のために東本願寺が設置した学場である。幼なじみの小川空恵(おがわくうえ)は「医者も僧侶も略々(ほぼ)相似(あいに)たり」と説得したという。教校の生徒には手厚い経済的支援がなされた。家計を逼迫せずに向学心を満たすことを望んだ14歳の若者は、育英教校に入学する。

 向学心に満ちた若者を翻弄したのも、その後、受け入れて育てたのも、幕末維新という転換期の変動に因るものであった。清沢もまたこの意味で時代の子なのである。

(『文藝春秋』2013年6月号)

※6月に発売される『文藝春秋』2013年7月号のタイトルは「恩義」です。

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