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今という時間

今という時間 - [237]

「井戸水の追想」
皇 紀夫(すめらぎ のりお)

 とうとう我家の井戸にコンクリートの蓋をして床下に閉じ込めてしまいました。その井戸はいつ頃掘られたものか分かりませんが、井戸側は頑丈に作られ堂々とした構えで、内は底深く覗き込むと体ごと吸い込まれていきそうで不気味でした。水量は豊かで渇水期でも涸れたことはありませんでした。遠い昔から別け隔てなく無数のいのちを育んできたこの命の恩人を、水道が整備され、使わなくなったという理由だけで地中に閉じ込めてしまったのです。
 私は最近、これが恩知らずな愚行であったと自責の念に苛まれています。家族生活の、文字通り中心であった井戸水には子ども時代からのさまざまな思い出が結びついています。このような追想は、飲み水と言えば水道やペットボトルの水が当り前になっている今では古い世代の懐古的な感傷に過ぎないと一笑に付されるのかもしれません。
 しかし井戸をもう二度と使えなくしてしまった今、井戸水は生物的な意味で命の支えであっただけではないことに改めて気付きました。それは日々の生活に深く織り込まれた、<自然からの恵み>を実感させる機会を私に与えていたのだと思えるのです。
 このことは、同じ水でも水道水などが代理できる役割ではないと思います。また、渇きを潤す以外にある意味付けを施したペットボトルの広告は、偽装された<水の物語>なのかも知れません。
 それでもって私たちは<意味の渇き>をいやしたつもりなのでしょうか。

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