今という時間 - [232]
「“新たな”問い」
三木 彰円(みき あきまる)
毎日通いなれた道の途中で、それまで何気なく見ていたものを再認識させられる。そんな経験は誰にでもあるのだろうが、それと似たような経験を学生との関わりの中で持つことがある。
授業で学生と一緒に『歎異抄』を読んでいる。私自身、大学で学び始めてから何回も繰り返し読んできたものである。しかし、学生から何気ない質問を受けた時、それまでにも読んでいた言葉が、ふと自分の意識の中に、改めて飛び込んでくることがある。この場合も見過ごしだ、といってしまえば一言で済みそうなのだが、どうも問題はそれだけではないように思われる。
私たちは、問いを持ち、それに対する答を探し出すという営みを日々繰り返している。そして、その問いが、私が生きることに関わるものであった場合、答が出たからそれでもう解決済みとならないところに私たちが「生きている」という事実があるのだろう。
昨日の問いと今私が持つ問いとが、たとえ同じように見えるものであっても、少なくともそれを問うている私自身は、昨日の私とは異なった状況を生きていることは間違いない。とすれば、その問いを済んでしまったもの、古びたものとすることはできない。むしろ新たな私の問いとして、新たな模索の歩みに踏み出さなければならないのだろう。
そんなことを思う時、恩師の「繰り返し繰り返し読みなさい」という言葉が改めて自分に思い起こされるのである。