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今という時間

今という時間 - [151]

「望という杖」
番場 寛(ばんば ひろし)

 欲望はそれが肥大して行き着く果てとしての消費社会や、環境破壊の原因として論じられることが多いが、時にまったく違った姿を見せることがある。
 ジャック・ラカンの「人の欲望は<他者>の欲望である」という表現は、人間はどんなに自発的に欲望しているように見えても実際は、言語という仕組みの中で他人に倣って欲望させられているのだということを示している。
 自分が本当は何を求めているのか分からないにもかかわらず、具体的な対象を求めてしまいそれを手に入れたと思った瞬間、別の対象が欲しくなってしまう。まるであらゆるものを飲み込んでしまう底なしの欠如でありながら、「・・・が欲しい」という形でしか何かを求めざるを得ないため、その「欲望の対象」を数式における未知数Xのように「対象a」と名づけたのはラカンの功績である。
 ところで、「死のうと思っていた」正月に、贈られた着物の生地が夏に着るものだと知って、「夏まで生きていようと思った」と書く太宰治にとって、欲望の対象は何かものではなく、空虚な「対象a」としての「着物をまとう行為」だったのだろうか。「夏まで」という言葉にすでに現実を持続のもとに捉え、未来に思いをはせる感覚が生まれている。欲望とは、よろめき、いますぐにでも崩れ落ちてしまいそうな生を支えている杖のようなものではないだろうか。

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