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今という時間

今という時間 - [125]

「デジタル化という暴力」
番場 寛(ばんば ひろし)

 学生による授業評価は5段階の数字で表される。その評価に対する戸惑いは、主観的なものが、数字化され、しかも他と比較可能なものとして提示されることに起因しているのかもしれない。前に、要介護認定についてのつくり話で、たしか「おじいちゃん、こんな年になってもテストを受けるんだね」と孫に言われる老人の話を読んだ。提供される介護サービスの公平化と適正化を目差す介護保険において、その人の能力の認定が要介護度という形で数字化されることに異論はない。
 銀行や保険会社の格付け評価に始まり、大学や企業のランキング、最近では、人の価値を金額で測ろうとする本まで出回っている。たしかに、アナログなものをデジタル化することが文化の本質かもしれない。しかし恐ろしいのは、最初は比べて判断のめやすにするために用いられた数字が、一旦表されるとあたかも絶対的で動かしようのない現実であるかのように人を抑圧する「デジタル化という暴力」と化す危険性があるという点である。もともと、評価されるということは「他人に自己の存在を認めてもらいたい」という、人間の最も根源的な欲望の一つを満たしてくれることでもあった筈だ。
 ずっと昔小学校に上がった頃、先生から作文や絵に三重丸をつけてもらった。その形が、大きくてしかも美しいことがどんなに嬉しかったことか。

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