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今という時間

今という時間 - [010]

「苦悩の恥じらい」
門脇 健(かどわき けん)

 講義中、突如、「ソ、ソ、ソークラテスか、プラトンか」と歌いたくなる衝動に襲われることがある。野坂昭如が照れ臭さを蹴飛ばすように「み~んな悩んで大きくなったッ」とオーバーアクションで歌ったあの唄である。もし、突然、私がこの訳の分からない唄を歌い出したら、学生は唖然とするだけだろう。見てはならないものを見てしまったという学生の怯えた表情を思い浮かべ、かろうじてその衝動は押さえている。
 教壇に立って、過去の偉大な哲学者たちの苦悩について講義していると、なんだか苦悩の博物館の案内役になったような気分になる。そして、いつのまにかその哲学者と同じくらい「大きく」なったような気になって得々と講義している自分に気づく。あの唄を歌えという声が、強迫観念のように耳元でささやくのは、そんなときである。
 現実と理想に引き裂かれて人は悩む。だから、現実との接触を欠いた苦悩の博物館には、苦悩などあるはずがない。そこには悩む自分を肯定する「小さな」自己満足しかない。そんな自分を恥じる心が、私にあの唄を、あのアクションを要求してくるのだろう。しかし、あらゆる理想が色褪せてしまった今の時代の学生諸君にも、中年教師のこんな苦しみを分かって欲しいなどと思うのは、無理な注文なのだろうか。

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