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生活の中の仏教用語

生活の中の仏教用語 - [302]

無垢

「無垢」
沙加戸 弘(教授 国文学)

 一般的には、まじり気や濁りがなく清浄であること、の意であるが、もとは一切の煩悩から離れた識(意識)を言う仏教語である。

 煩悩とは、仏教において貪欲(とんよく)・瞋恚(しんに)・愚痴(ぐち)、すなわち貪りの心・怒りの心・ものの道理を理解しない愚かな心を始めとする種々の妄念を言うが、生身の人間がこれらの煩悩から完全に解き放たれることはまことに難しい。

 必然的に、無垢あるいは無垢識は仏の境地を表現することばとして伝えられてきた。

 この語は、我国において、永く仏法領に留まっていたが、中世には周縁に出るようになる。

 『太平記』巻十七「山門ノ牒南都ニ送ル事」の中に、興福寺の学徒が自らの優位性を、

等覚無垢之圓上果也(とうがくむくのじょうかをえんずるなり)
と記している。我々は仏と等しい意識を持つ者である、という主張に、無垢の語が見える。もとの執筆者は興福寺の学徒であるが、『太平記』に採用されたことが、周縁に出てきた証である。

 近世に入るとこの語は、金や銀などにまぜものが入っていない、という意味に使われるようになる。ポルトガルの宣教師達が日本語習得のために編纂した『日葡辞書』には
ムクノコウガイ
の用例が出る。「コウガイ」は笄で髪飾りである。

 さらに降って、清らかでけがれのないこと、うぶで世間知らずであること、の意ともなり、一方近世を通じて、上着から下着まで無地の同色であることの意で用いられた。今に残る花嫁の白無垢、はこれである。

 今一つ、中にものがつまっていて空洞でない、あるいは贋物でなくほんものである、の意にも使われる。

 総じて、無垢の語は精神を表すところから物質へとその語義を広げてきたが、その広がりにつれて、物質の純粋性を重んずる反動であろうか、「我々は精神において、まず純粋であることを目指すべきものである」という本義が軽んじられてきたように思える。

 現今の、清濁併せ飲むのが熟した人間である、という風潮は、複雑な今の世の宿命であろうか。
(『文藝春秋』2011年12月号)

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