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生活の中の仏教用語

生活の中の仏教用語 - [265]

滅相

「滅相」
木村 宣彰(仏教学 学長・教授)

 「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとゞまりたる例なし。」
 『方丈記』冒頭の有名な一文である。生じたものは必ず変化し滅びるものである。しかしながら自己中心的に生き、果てしない欲望に支配されている人間には、今あるものが滅び去ることは辛くて悲しく、とうてい認められない。だが、この世にあるものは一つの例外もなく、因と縁とが和合して生まれたものであり、条件(因縁)が変われば、このままであって欲しいと思っても必ず変化する。
 仏教は、このように変化するものを「有為法(ういほう)」といい、常に変化し続けることを「諸行無常」という。有為法は、因縁によって〈生〉じ、〈存続〉し、〈変化〉し、〈消滅〉する。この変化をそれぞれ生相(しょうそう)・住相(じゅうそう)・異相(いそう)・滅相(めっそう)と名づけ、有為の四相と呼んでいる。四相のうち「滅相」とは〈消え去るすがた〉という意味である。
 人間の一生も生・住・異・滅の四相を示す。人身を得て誕生し、壮健な時期もあるが、やがては老い病み、ついには死んで行かねばならない。一休さんが「生まれては 死ぬるなりけり おしなべて 釈迦も達磨も 猫も杓子も」と言っている通りである。先々のことは分からないが、分かっていることはただ一つ。それは誰もが必ず死ぬということである。人間もまた「滅相」を避けることはできないが、生き続けたいと願う人間には、「滅相」は〈有ってはならぬこと〉〈思いもよらぬこと〉である。このようにして「滅相」の意味が転化し、今ではお礼を言われた時などに、〈とんでもありません〉〈どういたしまして〉という気持ちを伝えるのに「滅相もない」と言っている。
 それにしても有ってはならぬ事が多過ぎる。一国の宰相が、ある日突然、その職責を投げ出してしまう昨今である。しかし何と言ってもあってはならぬのは自分の死であろう。まさに「ついに行く 道とはかねて 聞きしかど 昨日今日とは 思はざりしを」(在原業平)である。「有為転変の世の習い」を忘れるなど、滅相もないことである。

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