生活の中の仏教用語 - [246]
「寒苦鳥」
沙加戸 弘(さかど ひろむ)(国文学 教授)
とりわけて寒さに弱い身に、忘れられぬ思い出がある。昭和三十年の春、祖母に連れられてある寺の法会に参詣した折に、高座から響いた節談法話の一節。
印度の雪山( せつせん)、高みなる故夜の寒気、それはそれはすさまじく草木も凍るが、昼また陽光あたたかなり。この雪山に、寒苦鳥と名付く鳥あり。夜は寒苦に堪えず、岩の間( はざま)に身をおいて、がたがたとふるえ乍ら、「明日は必ず巣を作らん、明日は必ず巣を作らん」と鳴いて一夜を送り、夜明くれば、朝日の暖かさにたちまち寒苦を忘れ、一日を遊び呆け、夜はまた寒苦に泣くとある。意図するところ、まことに明瞭な説話であるが、その内容は幼き者には伝わらず、ただ寒さに対する悲しい思いのみが残った。
寒苦鳥、また寒号鳥、かんくどりとも訓じ、雪山の鳥とも称する。古くより、「仏説に曰く」、あるいは「仏典に出ず」とあるが、経典の類では未だ管見に入らない。
『平家物語』巻第九「生ずきの沙汰」では、
たゞ平家の人々は、いつも氷にとぢこめられたる心地して、寒苦鳥にことならずと語られ、『曽我物語』巻第七「李将軍が事」には
われらが有様を 物にたとふれば寒苦鳥ににたりとあるが、いずれもおかれた状況の悪さのたとえとされ、その性質は語られていない。
享保三年( 一七一八年) 成立の『録内拾遺( ろくないしゅうい) 』に、
終夜雌は殺我寒故と鳴き、雄は夜明造巣と鳴也。夜明ぬれば朝日の暖なるに映じて巣をも造らずとあるのが古いところか。
近世後期の法座手控の類に多く見える故、寺院における法談の隆盛と共に成長した説話であろう。
ただし、これは生活の中の仏教用語ではなく、我々の心の実際の有様を、「怠惰から生れた希薄な決意など、何の役に立とうか」と喝破した、仏教の眼である。