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生活の中の仏教用語

生活の中の仏教用語 - [220]

示談

「示談」
木村 宣彰(きむら せんしょう)(教授 仏教学)

 堅苦しい話や教訓を垂れることを「説教をする」という。もとより説教とは、仏が教え説くことである。仏の説法は親父の小言とは異なり、初めから終わりまで「善」が説かれる。そこで「初中終善なり」(『法華経』)とされる。ここから「しょっちゅう喧嘩している」など言うように「いつも」「常に」「終始」を意味する「初中」の語が生まれた。
 やがて教主である仏が入滅されると僧侶が代わって説教を行うことになる。仏教が中国に伝来した初期の頃、それを「唱導」と呼んでいた。「座に昇り法を説き、或いは因縁を雑えてのべ、或いは譬喩を傍らに引く」ことにより人心を開導しようと努めたのである。
 僧侶が行う説教は、正しくて間違いがないことが前提となっている。だから説教の場で聴衆の側から質疑することは許されなかったが、後に浄土真宗では説教が終わってから聴聞者が説法に対する理解を語り合い、自らの信仰を披瀝して質疑する機会が設けられるようになった。これを説法者の法談に対して聴衆者の示談という。この示談は、聞法する信者が自分の信心を確かめるために大切であったから、敬称を付けて「御示談」と呼ばれた。
 蓮如は、このような信心を確かなものにする集会を「寄合」「談合」と称して重視した。信仰の座談を重視した蓮如は、つねに「物を言え言え」「物を言わぬ者は、おそろしき」(『蓮如上人御一代記聞書』)といい、「心中をのこさず、あいたがいに、信不信の義、談合申すべき」といって示談を勧めている。
 今日「示談」と言えば「示談で済ます」などというように、争いごとを一々裁判にかけないで話し合いで収めるという意味に専ら用いられている。今では法律用語として用いられ、互いのエゴを解消する方法としての示談であるが、真宗でいう示談はエゴを捨てて自己の信心を確かめることであった。他人の欠点はよく気づくものであるが、自分のそれは容易に気づかない。他人に厳しく、自分に甘いのが人間である。蓮如が「物を言え言え」というのは決して自我を主張せよということではない。心底をさらけ出し自らを今一度確かめよと言われたのである。

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