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生活の中の仏教用語

生活の中の仏教用語 - [177]

言語道断

「言語道断」
一郷正道(いちごう まさみち)(教授・仏教学)

 最近は、「あの件で某氏のとった態度は、言語道断である」といった用法が一般的だ。「もってのほか」「不当な」といった意味で使われる。
 だが、この熟語は、仏教の悟りの境涯を表す。仏教の悟りは、言葉や心のはたらきを越え、個人の体験から直観されるもので、言語の道が断たれた世界である。それを空性(くうしょう)ともいう。言も語も同じく断つ、と読めば「言語道断」も同じ内容となる。
 赤道直下の、南極の本当の暑さ寒さは、いくら多くの言葉を費やしても伝えられず、現地に行って自ら知るしかない。それでも、真理を伝えるには、その表現能力の限界を認めつつも言葉に依らざるを得ない。そこに真理を伝える苦労が生まれる。
 言語活動を断つことがなぜ悟りに通じるのかといえば、言葉は厄介なことに、迷いをもたらす根源でもあるからである。言葉は、本来、それに対応する実体をもつものではない。しかし、我々は言葉に様々な思いを寄せ、イメージを膨らませ、価値判断を付加する。それによって言葉が一人歩きを始めるのだ。
  たとえば、「東京大学」。「『東京大学』は、この世で幸せな人生を送るためには是非入学せねばならぬ大学である。そのためにはどこの幼稚園に入園すべきか、中高一貫教育のどこを選ぶべきか」云々と、正に言語道断ともいえる社会現象をひきおこす。これが、仏教でいう、煩悩、業(行為)の迷いの世界である。したがって、煩悩にともなう業が滅すれば、迷いの世界から解放されることになる。その煩悩、業の根源は、われわれに種々な価値判断(分別)をひきおこす言語なのである。
 インドで二、三世紀頃に在世したといわれるナーガールジュナは、このような迷、悟の構造を、主著『中論』の中で次のような詩頌でのべている。

 業と煩悩が尽きることから解脱はある。業と煩悩は分別(価値判断)から(起こる)。それら(価値判断)は、多様性をもつ言語から(起こる)。しかし、多様性をもつ言語は、空性において滅せられる

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