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生活の中の仏教用語

生活の中の仏教用語 - [149]

愛

「愛」
佐藤 義寛(さとう よしひろ)(助教授・中国文学)

 「愛」難しい言葉である。
われわれは、愛を絶対・至高のものと考えがちである。キリストは「汝の隣人を愛せ」と言い、孔子の説いた「仁」もまた愛であり、テレビは「愛は地球を救う」と叫ぶ。しかし、彼らと違って、釈尊は愛は苦だと説き、悟りへの障碍物と教える。
 釈尊は、妻をすて、子をすて、家をすてて出家の道に身を投じた。それはまた愛を切りすてることでもあった。愛は深ければ深いほど、切りすてる時の苦悩もより強い。その強い苦悩を知っているからこそ釈尊は愛を苦ととらえたとも考えられる。
 また愛という言葉自体は本来すばらしい言葉ではあるのだが、われわれ凡夫の愛の裏側には、常に区別の思いが隠れている。わが子を愛する心の裏には、わが子とよその子を区別する心があるように、何かを愛するという心の裏には、別の何かは愛さないという心が潜んでいる。愛国心という言葉が、時として危険性をはらむのはこのためである。そしてこの区別する心は、すぐに区別したものに対する執着の心を生み出す。
この執着を背景に持つ愛は、単なる己の欲望充足のための愛である。
 そもそも仏教でいう愛とは、トリシュナーの訳語で、この欲望の充足を求める「渇愛」をいう言葉である。こういう凡夫の「愛」こそが悟りへの障害でもあり、円覚経という経典にいう「輪廻は愛を根本と為す」の愛なのである。輪廻を脱するために、言いかえるなら、解脱のためには障碍となるような愛、釈尊自身こうした凡夫の愛を切り捨てることによって、より大きな深い愛へ近づこうとしたのかもしれない。
 たとえば飢えた獣の前に我が身を投げだしたという、本生譚に語られる愛。けして自己の欲望充足のためではなく、生きとし生けるものに広く等しくそそがれる絶対平等、無差別の愛、「仏の慈悲」と名づけられたこの愛こそが、釈尊が求めた愛であったのだろう。
 また善人のみならず悪人にすら往生の可能性があると説いた、その背景にある我が親鸞の「愛」も、この愛であったように思われてならない。

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