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生活の中の仏教用語

生活の中の仏教用語 - [317]

見分

「見分」
藤嶽 明信(教授 真宗学)

 「見分」という言葉には、立ち会って検査すること、見届けること、取り調べること、このような意味がある。ニュースなどでは、警察が火事の現場を実況見分したとか、漂流していた船を海上保安部が実況見分したなどという熟語で耳にすることも多い。そのせいか「見分」という言葉に対しては、なにかしら物々しいイメージをもってしまう。

 さて、「見分」は仏教においても使われる言葉であるが、先に述べたような意味とは大きく異なり、「相分」との関係において使用される用語である。

 「相分」とは、自分の心のなかに作り出された認識対象を指す。そしてその「相分」を対象として、見たり聞いたり認識する心のはたらきのことを「見分」という。

 私たちは通常、客観的に存在する事物(対象)を自分の感覚器官などによって的確に認識していると思っている。ある場合には、私の勝手な主観を通して認識しているのではないか、そのように振り返ることはあるにしても、認識対象自体は客観的に存在していると思い込んでいる。

 しかし果たしてそうなのであろうか。「相分」「見分」という言葉は、対象も認識も両方共に自分の心のなかに描き出されたものであることを告げている。

 少し前、いじめを目撃した複数の生徒も立ち会わせて、実況見分を行ったという記事が載っていた。そこに居合わせた人たちにとって、「事実」の捉え方は果たして同じであったろうか。

 「相分」「見分」という言葉は、認識が各人の心を色濃く反映したものとして成立しており、なおかつそのことに人がいかに無自覚であるかを教えている。それは実況見分に限ったことではなく、どのような人の見方にもある問題なのである。自分にとっては客観的で間違いのない認識であるかのように思えたとしても、立場が異なる人においては自分とは大きく異なる認識や捉え方がある。私たちはどこまでも自分が描いた対象を見ているにすぎないのである。

 自分の見方は十全であると過信するな。そんなことを仏教用語の「見分」は教えてくれている。

(『文藝春秋』2013年3月号)

※3月に発売される『文藝春秋』2013年4月号は、門脇健教授(哲学)による「お彼岸」です。

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