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生活の中の仏教用語

生活の中の仏教用語 - [314]

料簡

「料簡」
藤嶽 明信(教授 真宗学)

 「料簡」という言葉は日常では、「こんな事をするとは、お前はどういう料簡をしているのだ」「とんだ料簡違いである」「悪い料簡を起すな」などと、詰問や叱責の場面で使われることが多い。これらでは誤った考えなどを指摘するものとして「料簡」という言葉が使用されている。このように今日では、「料簡」という言葉は、単に人間の考えや思慮を指す言葉として使われている。

 「料簡」は、仏教のなかでも広く使われている言葉である。仏の教えを丁寧に学び取っていくこと、道理を推し量ること、問答によって詳しく論議することなどの意味がある。

 中国唐代の僧である善導が著した『観経疏』(『観無量寿経』の註釈書)には「料簡」という言葉が繰り返し出てくる。例えば「広く上輩三品の義意を料簡し竟(おわ)んぬ」「広く中輩三品を料簡し竟(おわ)んぬ」「総じて下輩三位を料簡し竟(おわ)んぬ」などである。

 上輩三品と中輩三品と下輩三位とは、『観無量寿経』において仏によって説き示されている九通りの人間の在り方(九品)のことである。人間存在の真相について、善導は仏の教えを通して丁寧に学んでいる。人間の存在様態は千差万別である。しかしどのような在り方をしていようとも、人間とはお互いが多くの思い違いを抱えた愚かな存在(凡夫)に他ならない。そのことを善導は仏の教えのなかに学び取っている。

 このように、人間存在を深く学び取っていく、そこに仏教における料簡の大切な点がある。仏の教えは、人間の考えや判断が有する独断性や問題性を照らし出してくる。そのような仏の教えを丁寧に聞き学んでいくことを善導は料簡という言葉で示している。

 自分自身の考えの間違いや誤りは、自分ではなかなか気付きにくい。だからこそ気付かせてくれるものに学ぶことが大切であろう。そして、自己の料簡が有する独断性や問題性に気付かされていくところにしか、様々な違いを抱えた人間における真の対話は始まらないのではなかろうか。

 人間存在の真相を明らかにする、そのような教えに真摯に向かい合っていく、そこに仏教における料簡の大切な意味があるのである。

(『文藝春秋』2012年12月号)

※12月に発売される『文藝春秋』2013年1月号は、門脇健教授(哲学)による「四苦八苦(しくはっく)」です。

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