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生活の中の仏教用語

生活の中の仏教用語 - [313]

玄関

「玄関」
織田 顕祐(教授 仏教学)

 普段の生活で、毎日必ず使っている「玄関」であるが、「玄関」という字を見てもその意味はよく分からない。もともとは、自覚としての「深いさとり(=玄)に入るための関門」という意味の仏教語である。それが中世、禅宗の発展に伴って悟りを開く道場としての禅宗寺院の入口を指すようになり、次いで、武家の住宅に取り入れられて意味が大きく変化した。もともと中世の人々は、貴族にしても庶民にしても屋敷や家の縁側のようなところから出入りしていたので、玄関を必要とはしていなかったのである。

 武家の住宅に玄関が必要とされたのは、当時の政治の仕組みが、社交と深く結び付いていたからである。群雄割拠の時代、食事や酒によるもてなしや、舞踊や歌謡などの芸能による接待は、相手を味方につけるための重要な方法であり、茶道や能がこの時代に大きく発達したのはこうした時代社会と深い関係がある。このような背景の中で、相手を恭しく送迎する場所として玄関が必要になったのである。こうした必要性は、近世の身分社会の中でさらに重要度を増し、玄関のしつらえは身分によって細かく制度化され格式化された。そして、身分社会の中では一般の町人や農民には玄関は許されなかったのである。玄関は、権威あるものの内側と外部世界との接点であり、それゆえそこでは正しい接し方がとても重要だったのである。

 現代では、挨拶の場所としての玄関の機能もほとんど消失し、力の象徴としての意味がかろうじて残っている程度だ。身分社会の呪縛からは解放されたと言えるが、それは、内と外との境目が限りなく不透明になることでもあった。例えば、自動車という移動する私的空間の日常化によって世の中すべてが自分の空間のように勘違いしている人がいる。また情報端末の発達によって、どこに居ても自分の都合良い物事と繋がっているように勘違いする。

 地下鉄の中で傍若無人に化粧する人や、何でもネットですまそうとする人をしばしば目にする今日、改めて「玄関」の本来の意味に立ち帰って、共に生きているという人間関係の単純な事実を見つめ直さなければならないように思われる。

(『文藝春秋』2012年11月号)

※11月に発売される『文藝春秋』12月号は、藤嶽明信教授(真宗学)による「料簡(りょうけん)」です。

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