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生活の中の仏教用語

生活の中の仏教用語 - [308]

境界

「境界」
藤嶽 明信(教授 真宗学)

 隣家との境界をめぐって言い争いになる。このように使われるときは「境界(きょうかい)」と読み、土地や国のさかいとか区域などを意味する。

 国と国との境界は国境である。しかし、空の上から見た地球には、国を分ける境界線などは何処にも見ることはできない。以前このような話を聞いて、妙に納得させられた。地球の上に様々な境界線を引いて来たのは他ならぬ人である。

 さて仏教では「境界(きょうがい)」と読み、略して境ともいう。境界・境にはいくつかの意味があるが、今回は六境(ろっきょう)<色境(しききょう)・声境(しょうきょう)・香境(こうきょう)・味境(みきょう)・触境(そくきょう)・法境(ほうきょう)>を取り上げることにする。六境とは人間の認識対象のことである。すなわち人が眼・耳・鼻・舌・身・こころによって感覚し認識する六つの対象のことを六境という。

 これらの六境は自己存在と密接に関係していると説かれる。たとえば自分好みの音楽は心地よい音として聞こえるが、他の人にとっては必ずしもそうではない。反対に、自分には苦手な香りでも、それを好む人もいる。

 このように認識対象は、自己を離れて単に客観的に存在しているものではなく、自己と密接に関係して存在しているのである。しかし人はそのことに気付かず、物事は自分を離れて客観的に存在していると思い、その上で好ましい対象は受け入れようとし、好ましくない対象は排除しようとする。このように見てくると、国や私有地の境界線(きょうかいせん)だけではなく、様々な物事に種々の境界線(きょうかいせん)を当然のように引いて、受け入れや排除を行っている人間の姿が浮かび上がってくるのではなかろうか。

 そして自分がする物事の受け入れや排除が線引きであると同様に、他者がなす受け入れや排除に対して自明のごとくに沸き起こる称賛や非難、これもまた自己による線引きであることを知るべきであろう。なぜなら、万事は自己存在と密接に関わりながら、褒めるべきこととして思えたり、また詰(なじ)るべきこととして思えたりしているからである。

 私たちが当たり前のように認識していることは、今一度根本から問い直す必要があるのではないか。境界(きょうがい)という仏教語は、そのことを教えてくれている。

(『文藝春秋』2012年6月号)

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