生活の中の仏教用語 - [305]
「露地」
沙加戸 弘(教授 国文学)
雨露のかかるところ、覆いのないところ、の意であるが、仏教では野外に座す修行を言い、進んですべての煩悩、束縛を脱却した境地を言う語である。
我国では、奈良朝以来前記の二義で用いられたが、室町期に屋敷や寺などの内外の地、あるいは通路をも意味するようになり、露路の表記も使われるようになる。
さらに、茶の道が興るに及んで、茶室に配された庭も露地と称するようになった。
今一つ、町中(まちなか)の家と家との間の狭い通路、屋根のあるものまで含めて露地と言いならわしている。
冒頭の、煩悩を覆いにたとえ、束縛から解き放たれた境地を示す用例としては、『妙法蓮華経』「巻第二譬喩品第三」に説かれる「三界火宅の譬」がその代表的なものである。
その大略は、大長者があって広大な屋敷を有していたが、出入口は一門のみであった。
長者の諸子が屋敷に居る時、突如として火事が起った。屋敷外にあった長者は、火事に気付かない多くの子供に、
汝等、速かに出でよ。と警告するが、子供は遊びに夢中で父の言葉を聞こうともせず、また家の外に出ようともしない。
そこで父なる長者は子等に、
羊車・鹿車・牛車、今門外に在り。以て遊戯すべし。と呼びかけ、それらは汝等に与えようと告げる。欲しかったものが門外にあると聞いて、子供が先を争って火宅を出たのを見て長者は、
諸子等の安穏に出づることを得て、皆四衢(く)道の中の露地に於いて坐して、復(また)障礙(しょうげ)なきを見て、其の心泰然として歓喜踊躍して、子等に等しく大きな白い牛の牽く車を与えた、とある。
人の住む世を炎上する家に喩え、そこから解き放たれた境地を、覆いのない四方に通ずる道に座す、と説くのが「三界火宅の譬」である。
さまざまなものを身につけ、まわりを覆うことに心を尽してきた我々であるが、覆えばそれによって見えなくなるものもあることに、そろそろ思いを馳せたいものである。
(『文藝春秋』2012年3月号)