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生活の中の仏教用語

生活の中の仏教用語 - [295]

無縁

「無縁」
一楽 真(教授 真宗学)

 「無縁社会」という言葉で最近よく耳にするようになった「無縁」。地縁や血縁が希薄になり、「孤独死」する人が多くなった現代日本の大きな問題として取り上げられている。「無縁死」という言い方まで出てきた。

 すでに「無縁墓」や「無縁仏」という言葉も、かなり以前から使われている。その意味では「無縁社会」も間違った使い方とはいえまい。ただ、それが元々の意味と大きくへだたっていることには、いささか注意をしておく必要がある。

 仏教で「無縁」という場合、縁がないという意味ではない。縁を「条件」と訳してみれば、よく分かる。無条件、つまり条件に関わらないことを意味している。その代表が「無縁の大悲」と言われる仏の慈悲である。相手が誰であろうと、差別することのない平等の心である。

 慈悲の心は人間にもないわけではないが、人間はどうしても条件づけを離れられない。自分と関係が近いときには、慈しみ、悲しむ心が起こる。逆に関係が遠いと、関心も薄れる。それは人間のもって生まれた性分であろう。ただ、人間の慈悲の狭さを知っておかねばならない。血縁だけにこだわったり、地縁による結びつきを強調するならば、その縁に加われない人を必ず排除していく。それが人間の慈悲の本質である。

 かつて網野善彦氏が提起したように、日本の中世における「無縁」は、世俗の権力や支配の及ばない場所を意味した。そこは、地縁や血縁を超えた独自の関係が結ばれ、自由で明るい世界だった。人は決して孤立していなかったのである。このような意味での「無縁」が、少なくとも中世までは存在し、言葉としても用いられていたのである。

 「無縁社会」は現代の世相をよく表わしているかもしれない。しかし、助け合い、支え合う関係が切れているというのならば、「無援社会」と言うべきではなかろうか。そして忘れてならないのは、その無援の社会を作っているのは、私たち自身であるということである。関わりを断つのが「無縁」ではない。分け隔てなくつながっていく方向を指し示す言葉なのである。

(『文藝春秋』2011年5月号)

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