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生活の中の仏教用語

生活の中の仏教用語 - [294]

仮説

「仮説」
兵藤 一夫(教授 仏教学)

 「仮説」は「仮説(けせつ)」と読まれて仏教の根本的な立場を示す用語であることを知る人は少ないであろう。「仮説」は現代では科学の分野などで重要な語として用いられている。科学の分野では、学説はなにがしかの真理を含んでいるとしても、すべて一つの「仮説」であると考えられている。たとえノーベル賞を獲得したような学説であっても、自然の現象や人間社会の現象を完全で恒久な形で一般化した法則ではなく、後に変更されなければならない、まさに「仮の説」と考えられている。このことはその学説を主張する当の本人も含めて誰もが認めることであり、科学は「仮説」によって発展すると言われる所以でもある。

 仏教の「仮説(けせつ)(仮にことばで説く)」は、「仮設(けせつ)(仮に設定する)」「仮立(けりゅう)(仮に立てる)」「施設(せせつ)」などとも言われ、説明原理や法則だけでなく、より根本的なことがらである「ことば」を介した認識や表現そのものに対して適用される語である。

 仏教では、すべては因縁によって生じた(縁起した)もので、刻々と変化し(無常で)、恒常不変な本性のないもので、対象を切り取って固定的に一般化して捉える「ことば」によっては認識・表現できないもの(不可言説、不立文字)とされる。そうであるのに、私たちは「ことば」を借りて認識・表現することに慣れ、そこに何の疑問も感じていない。実は、私たちの日常の見る・聞くなどにおける「ことば」を用いた認識は、ありのままの事実を捉えているのではなく、「ことば」を借りて仮の形で捉えたもの、すなわち「仮説」なのである。

 「ことば」による認識は有用で便利であるが、自覚しないままに「ことば」の固定的な意味内容をことがらに付着して、執着や固定観念を生じさせ、苦悩を生み出す。

 このように、私たちの執着や苦悩に満ちた現実は、私たち自身が「ことば」によって作り上げたもの、一種の「ヴァーチャル・リアリティー(仮想現実)」で、その中で自らもがき苦しんでいることになる。経典などでは、このありさまを「蚕が自ら吐き出した糸によって包み縛られるようなものである」と譬える。

(『文藝春秋』2011年4月号)

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