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生活の中の仏教用語

生活の中の仏教用語 - [285]

隨喜

「隨喜」
兵藤 一夫(教授 仏教学)

 「隨喜」ということばは近頃ではほとんど使われないので知る人も少ないかもしれない。以前は時に「隨喜の涙を流す」など、目にしたり耳にしたりしたものである。

 ところで、本来「隨喜」とは他者のなした善行や福徳をその者の心情に隨って喜ぶことである。仏教においては「慈悲」と並んで、あるいはそれ以上に重要な徳目とされているが、一般には慈悲ほど注目されず、その真意や重要性はあまり知られていない。

 隨喜は身近なことがらではある。私たちは、電車でお年寄りに席を譲ったり、災害への募金を行なうなどの善行を見聞きする時、嬉しい気分にさせられる。知らないうちに彼らの善行を隨喜しているのである。ところが、その行為の程度が自分にはできそうもない並外れたレヴェルになると、驚嘆することはあっても隨喜することは難しい。ましてそれが仏陀や菩薩などの超人的な善行や事績であればなおさらであろう。私にはできそうもないとして当事者の心情から離れてしまうからである。仏教では、たとえ仏陀や菩薩などの善行や事績であろうとも、それを隨喜することが善行として勧められる。他者の小さな善行から仏陀や菩薩などの善行まで、それらを具体的な形で自分の心に想い、善行をなした者たちの心情に想いを馳せながら隨喜する時、自らの善行になるのである。

 しかも、この隨喜による善行は、自分自身でそれをなした以上に大きな福徳があるとされる。私たちは、何かをなす場合、自分がそれを実際に行なうかどうかを重視しがちである。しかし、他者の善行を隨喜するには、自分と他者の壁を取り払って他者のことを喜ぶことが求められるため、自分で実際に行なう以上に心を成長させるのである。

 隨喜にはもう一つ大事なことが伴っている。一つの善行は他の者たちによって隨喜されても、その善行はなくなったり減ったりせず、多くの者たちに共有されて増大し尽きることはない。それは一つの灯火から次々と灯火がともされても、その灯火は消えたり減ったりせず、増大して尽きることはない(無尽灯)ようなものである。

(『文藝春秋』2010年7月号)

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