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生活の中の仏教用語

生活の中の仏教用語 - [279]

信

「信」
Robert F. Rhodes(教授 仏教学)

 最近、ゼミなどで話していると、「宗教は怖いものだ。マインドコントロールされ、危ないことを信じ込まされる」と考える学生が多いことに驚かされます。この理解はオウム真理教の地下鉄サリン事件で一気に広まり、今日でも根強く残っています。どうやら学生たちの間では「宗教を信じること=危険なこと」という公式が定着しているようです。

 たしかに学生たちの危惧も理解できます。歴史を振り返ってみると、信仰の名のもとで数知れない人々が迫害され殺害されてきました。また、今でも毎日のように過激派グループによる自爆テロが報道されています。昔から宗教は、自分たちと違う人々を敵にしたてて排除してゆくための便利な道具として利用されてきたことは否めません。

 しかし、そのような信仰は歪曲されたものといわざるをえません。真の信仰は自己の閉鎖性を破り、自己を世界に開放してゆくものでなければなりません。仏教的にいえば、それは私たちをすべての執着から解き放し、この世の中で自由に主体的に生きてゆく道を開いてくれるものなのです。

 竜樹菩薩の著作とされる『大智度論』には「仏法の大海は信を能入となす」という言葉があります。これは仏陀の教えに触れ、それに頷き信じることが、仏教に入るための必須条件であると説くものです。そしてこのような信こそ、豊かな人生を着実に歩んでゆくために不可欠なものであると述べられているのです。

 ただし、一切の執着を否定する仏教では、信も究極的には執着すべきものではないとも説かれています。信仰の対象に固執すれば、却ってそれに束縛され、時には狂信的な状態に陥ってしまうからです。そこで仏教では信を重視しながらも、自分が獲得した信が本当に自己を開放してくれるものなのか、あるいは逆に執着を助長する閉鎖的なものなのかと、常にその「質」を問い続けなければならないことを指摘します。

 宗教がテロなどの暴力行為と深く結びついてしまった今日では、各自の信の「質」こそ、重要な課題になるのではないでしょうか。

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