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生活の中の仏教用語

生活の中の仏教用語 - [276]

智目行足

「智目行足」
Robert F. Rhodes(教授 仏教学)

 中国仏教を代表する僧侶のなかに、隋の時代に天台宗を大成した智顗(ちぎ)(五三八~五九七)がいます。智顗は仏教教理について深い学識を持つ学僧であるとともに、卓越した禅師でもありました。彼は多くの著作を残しましたが、そのなかでも『法華玄義(ほっけげんぎ) 』と『摩訶止観(まかしかん)』は、特に有名です。『法華玄義』は『妙法蓮華経』の題目を注釈したものですが、その中には智顗特有の壮大な仏教観が展開されています。また『摩訶止観』は止観(仏教冥想法の一種)について組織的に説いた優れた指南書として、中国や日本でも盛んに研究されてきました。

 『法華玄義』のなかに、「智目行足到清涼池」(「智の目と行の足とをもって清涼の池に到る」)という一節があります。この言葉には智顗の学問と実践に対する基本的な姿勢が示されています。つまり、ここでは智慧の目(智目)とそれに基づく修行(行足)が両方あってはじめて、清涼な池にたとえられる悟りの境地に到ることができると述べられています。

 智顗の時代には、仏典を学ぶ必要を認めず、ただひたすら坐禅を行う僧侶や、学問に没頭し修行を重視しない僧侶が多くいました。智顗は前者を「暗証の禅師」と名づけ、後者を「誦文(じゅもん)の法師」と呼び、両者とも厳しく退けました。智顗にとって、仏教の研究と実践は、あたかも鳥の両翼や車の両輪のようなものであり、両方とも悟りに到るために不可欠なものであったのです。

 誦文の法師のように、経典を研究するだけで、その教えを実践しなければ、何の結果も期待できません。しかし、逆に到達すべき目標が正確に見出されないまま、むやみに修行を行うと、時には誤った方向に突き進んでしまうことにもなりかねません。

 今日世界中で、宗教の名のもとにテロなどの暴力行為が頻繁に行われています。他に暴力を振るうことは、本来いかなる宗教でも認められることではありません。そのような宗教は、その本来の姿を失った宗教であるといわざるをえません。宗教に携わるすべての人が、自宗の教えをしっかりと把握し、信仰の道を確実に歩むことが願われています。

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