ここからサイトの主なメニューです

Home > 読むページ > 生活の中の仏教用語 > 光明

生活の中の仏教用語

生活の中の仏教用語 - [273]

光明

「光明」
Robert F. Rhodes(教授 仏教学)

 光のイメージは、世界の多くの宗教によって大切にされてきました。キリスト教では宇宙の創造は「光あれ」という神の言葉で始まったとされています。仏教では光(光明)を仏の智慧の象徴と受け止め、この智慧の光には私たちの迷いを破る力があると説いています。

 例えば『大般涅槃経』には次のような物語が見られます。釈尊の時代、インドに阿闍世という王がいました。父親を殺して王位に就きましたが、その悪行のため、ついに身体(からだ)全体に瘡(かさ)ができるという重病を患ってしまいました。様々な治療を試みましたが、一向に直る兆しはありません。しかしある日、耆婆(ぎば)という名医に出会い、この病気は父を殺害したために生じた心の病であることに気付き、深く懺悔します。そして耆婆の勧めにより、釈尊のもとに詣でて、教えを乞うことにします。そこで釈尊は阿闍世のために月愛三昧(がつあいざんまい)に入り、大光明を放ち、阿闍世の病を癒したのでした。

 なぜ釈尊の光は阿闍世を癒すことができたのでしょう。この月愛三昧の光を一種の超能力と理解するのは誤りであると思います。この光は全ての苦しみや悩みを包み込む、月の明かりに象徴されるような釈尊の優しく暖かい智慧の眼を表しているのに他なりません。そして、この智慧の光に照らされることによって、阿闍世は自分の心の闇の部分に潜んでいた欲望や葛藤—具体的に言えば父親を殺しても王位に就きたいという欲望や、父殺しの罪悪感から起こる葛藤—を自覚し、懺悔し、心のわだかまりを解消することができたのでしょう。そして心が清められたとき、身体の病も癒されたのでしょう。

 仏教では、人間を迷いに埋没した存在と受け取りますが、迷いの世界に埋没している限り、迷いを正しく迷いと認識することはできません。迷いを超えた智慧の光に触れてはじめて、迷いが迷いであるとはっきり自覚されるのです。同様に阿闍世も、智慧の光の眼をもって、過去の思いや行為を反省し、懺悔したとき、迷いの世界の束縛から解放されてゆく道を見出すことができたのでしょう。

Home > 読むページ > 生活の中の仏教用語 > 光明

PAGE TOPに戻る

ここからサイトの主なメニューです