生活の中の仏教用語 - [256]
「殊勝」
木村 宣彰(きむら せんしょう)(学長・教授 仏教学)
新しい年は、去年の反省を込めて偽装などのない佳い年であって欲しい。見せかけは立派だがその実質が伴わないことを仏典は「羊頭狗肉」(ようとうくにく)と言っている。羊の頭を掲げて犬の肉を売る食品偽装のたぐいである。このような偽装だけでなく、あらゆる粉飾や偽造が無くなることを願わずにはおれない。
一流企業や老舗のトップが、不祥事のたびに〈殊勝な顔〉で謝罪する姿はもうたくさんである。黒の高級スーツを着た「エライさん」たちが、横一列に並び一斉に頭を下げる様子は、何か不思議な儀式を見る思いである。そもそも不祥事とは、関係者にとっての不名誉や好ましくない事柄を指す言葉であり、まさに謝罪すべきは不祥事でなく偽装など誤魔化しの行為である。更には〈殊勝な顔〉の謝罪が欺瞞であってはならない。いま望まれているのは敬虔で〈殊勝な生き方〉である。
一七世紀初頭にイエズス会の宣教師が編纂した『日葡辞書』(にっぽじしょ)では「殊勝」の語義を「Cotoni sugururu(=殊に勝るる)」と解釈 し、「すぐれたことをほめるのに用いる語」と説明し、説教や、神聖なこと、信心に関することに用いるとその語法を説明している。仏教語である「殊勝」は、文字通り〈殊に勝れていること〉を意味する。『無量寿経』(むりょうじゅきょう)は、仏の威徳を「殊勝にして希有なり」といい、阿弥陀仏がかつて菩薩の時に立てた一切衆生を救う誓願を「無上殊勝の願を超発せり」と称讃している。また、仏の教法を「殊勝の法をききまいらせ候ことのありがたさ」(蓮如『御文』(おふみ))といい、仏のすぐれた智慧を「殊勝智」と呼んで讃嘆(さんたん)する。このように仏・菩薩の教えや智慧だけでなく、場の雰囲気が甚だ厳粛なことを「殊勝の気」と表現する。
新しい年を迎えると「殊勝の気」が満ちていたものであるが、今や世俗化が進み、すっかり消え失せた。代わって不埒な事件を起こして謝罪する〈殊勝な顔〉が巷に氾濫する。新年の季語には〈初春〉〈歌会始〉などのように「初」や「始」が付くめでたいものが多いが、そのうちに〈初偽装〉や〈不祥事始〉が季語にならぬようにと願うばかりである。