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生活の中の仏教用語

生活の中の仏教用語 - [251]

寿命

「寿命」
宮下晴輝(みやした せいき)(仏教学 教授)

 仏教では「いのち」を寿(じゅ)とも命(みょう)ともいう。ほぼ同義であるが、無量寿(むりょうじゅ)ともいうように寿は時間を表し、命は身体を維持するはたらきを指す。
 いま、さまざまなところで「いのち」が問われている。高齢者問題もその一つである。長寿であるというそれだけで祝えなくなってしまった。どう見たって健全な社会とはいえない。老人たちが社会問題になるほどに疎んじられるとなると、比率が高まるほど数多くの孤独な人生をますます生みだすことになる。
 食糧問題、環境問題、教育現場、家庭など、あらゆることが疑わしいものとなり崩壊していくようだ。
 いろんな問題が覆い被さり悲惨な事件が相次ぐと、それは「命を軽視する」考え方がはびこっているからであり、そのために心の教育が必要であるとか、命の教育が必要であると言われ出す。しかし、ほんとうにそういう問題なのだろうか。 
 仏教の古いエピソードがある。青年ゴータマ(釈迦)が出家し沙門となり、求道生活を始める。激しい苦行で身体は痩せ衰える。そこに悪魔が現われてゴータマにささやく。あなたは痩せ衰えている。そんなに激しく修行すれば死んでしまうだろう。命を落とせば、もはや幸せなどつかむことができない。そんなにして努めて何になろう。生きよ。生きて幸せになれ、と。
 ゴータマは悪魔に答える。私には信ずるものと勇気と智慧がある。どうして私に命のことなどたずねるのか。私の意欲によって巻きあがる風は、ガンジス川の水を干上がらせるほどである。この身体を流れる一升ほどの血がどうして干上がらないだろうか、と。(原典” Suttanipata”)
 老いも若きもみなやがて老い病み死んでいく。だから人生を楽しむのだという考えもあっていいだろう。
しかし人生の意味がそれにしか見いだせないというところに、問題の真の根があるように思う。
 老いてもなお生きる未来があるといえる命を生きてこそ、本当に長寿を喜ぶことができるのであろう。
命あっての物種、死んだらおしまいとは、悪魔のささやきのようだ。

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