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生活の中の仏教用語

生活の中の仏教用語 - [224]

成仏

「成仏」
中川 皓三郎(なかがわ こうざぶろう)(教授 真宗学)

 成仏という言葉を聞くと、私たち日本人は、「死ぬこと」と理解しがちであるが、本来はそのような意味ではない。成仏とは、文字通り仏に成ることである。仏とは、真理に目覚めた人という意味である。その真理は、縁起の法と言われ、今から二千五百年ほど前に、釈迦族の王子であったゴータマ・シッダールタという青年が、二十九歳の時、老病死の苦しみからの解脱を願って出家し、六年の苦行の後に、菩提樹の下で目覚めた真理である。それは、すべての存在は、それ自身で在るものでなく、他のすべての存在なしには在り得ない、という目覚めであった。
 『スッタニパータ』という古い経典に、「真理は一つであって、第二のものは存在しない。その真理を知った人は、争うことがない」と語られ、また、『仏説無量寿経』には、「もろもろの衆生において、視(みそな)わすこと自己のごとし」と語られているように、仏に成るとは、もはや如何なるものとも敵対することのない、世界が私であるという目覚めを生きるものに成ると言ってもよいだろう。
 釈尊〔仏に成ったゴータマ・シッダールタを、<釈迦族から出られた尊い人である>として釈尊と呼ぶようになった〕は、八十歳でいのち終わるまで、自らそれに目覚めて仏に成ることのできた、その真理を身をもって示し、言葉をもって説いていかれたのである。それは、「あたかも、母が己が独り子を命を賭けても護るように、そのように一切の生きとし生けるものどもに対しても、無量の慈しみのこころを起すべし」(『スッタニパータ』)と語られているように、はかり知れない慈しみをもっての関わりであった。そのことによって、人間の社会の中に僧伽(そうぎゃ)〔和合衆〕と呼ばれる親しい交わりの場が生み出されていったのである。
 ゴータマ・シッダールタという一人の人が仏に成ったことは、「一切の衆生に悉(ことごと)く仏性(ぶっしょう)有り」(『涅槃経』)と語られているように、すべてのものが、その本性において仏であるということが明らかになったのである。だから、すべての人間は、仏に成ろうとして生きているのであり、仏に成らなければ〔真理に目覚めなければ〕、この世に生まれてきたことの意味が完成しないのである。

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