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生活の中の仏教用語

生活の中の仏教用語 - [217]

譏嫌

「譏嫌」
木村 宣彰(きむら せんしょう)(教授 仏教学)

 「ご機嫌いかがですか」
  安否や様子を尋ねる挨拶である。このほか「機嫌を取る」「ご機嫌を伺う」など、日頃よく機嫌という語を使う。この語はもと<譏嫌>と書き、文字通り「譏(そし)り嫌う」の意味である。今では「機嫌を直す」というように自分の他人に対する悪感情を改める場合にも用いている。
  この譏嫌という言葉は、もとは仏弟子たちが修行に励むことができるようにとの配慮から生まれた。いうまでもなく、出家の修行者は専ら修行に励み、どのような経済活動も行っていない。従って、衣食など生きる上で必要なものは一般の人びとの布施に依っている。もし修行者が尊敬されず、譏りを受けるようになれば、僧伽(そうぎゃ)〔仏教の教団〕は立ち行かなくなり修行に励むことができない。ただ一人の非行であっても世間から顰蹙(ひんしゅく)を買えば僧伽の存続は危うくなる。
  そこで世間の譏りを受けることのないよう配慮して戒律が制定された。それが「酒を飲んではいけない」「五辛を食べてはいけない」などの譏嫌戒である。百薬の長といわれる酒を飲むことは必ずしも罪悪ではないだろう。しかし修行者が痛飲して健康を害したり、公衆の面前で醜態を曝すようなことがあれば、世間から譏りを受け非難を浴びるのは当然である。大乗の『涅槃経』では「世の譏嫌を息(や)めさせる戒」という意味で「息世譏嫌戒(そくせきげんかい)」と呼んでいる。
  智慧の宗教である仏教は「智慧を具足し、予め譏嫌を見る」ように勧める。戒を定めて世間の譏りを避けるのは次善であろう。あくまでも世の動向を見極め、何を行うにも時機や機会を誤ってはならない。そこで譏嫌が機嫌と書かれるようになったと考えられる。『徒然草』に「世に従はん人は、先づ機嫌を知るべし」とある。この<機嫌>がやがて人の気持ちや気分の良し悪しを意味するようになる。
  ほろ酔いの一杯機嫌も結構だが、度を超すと世の譏嫌を招く。仏典は「当(まさ)に譏嫌を護りて衆生をして妄(みだり)に過罪を起こさしめず」(『起信論』)と説く。自覚して譏嫌を護るべきだが、つい迎合して機嫌を取る。何につけても自重し自戒すべきである。

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