ここからサイトの主なメニューです

Home > 読むページ > 生活の中の仏教用語 > 道具

生活の中の仏教用語

生活の中の仏教用語 - [211]

道具

「道具」
木村 宣彰(きむら せんしょう)(教授 仏教学)

 人間は考える葦である。パスカルは自然界における人間の脆弱さと、その思考力の優越性をこのように語った。しかし、人間は決して弱い存在ではなく、むしろ多くの動物にとっては脅威である。人間は自然を破壊し、数多くの生物の種を絶滅させた。人間は自らの周囲にある物を加工して道具をつくり、それを武器として動物を攻撃したからである。人間は言語なくしては考えることも意志を伝達することもできないが、それと同じように道具なくして一日として生存し続けることができない。道具をつくり、それを使いこなす能力は、人間だけの特性である。
 今日、「道具」といえば、箪笥や鏡などの所帯道具や家財道具、箒や鋸などの掃除道具や大工道具を指す。他に、趣味的な茶道具や釣り道具もある。これらは、電気やガスの器具とは違って、私たちが手で使う簡単な用具である。器具や機械と区別され、ある目的を実現するために利用するものを道具と呼んでいる。
 江戸時代の『貞丈雑記』には「道具と云う詞は、其の家々の家業に用いる器物(ウツハモノ)を云うなり」と記されているが、元来は仏教の語である。
 仏道修行者の「身を資(たす)け、道を進め」、「善法を増長する具」(『釈氏要覧』)こそがまさしく「道具」である。それは修行者に必要最低限の三種の「衣」と托鉢に用いる一つの「鉢」とが基本である。この「三衣一鉢」に、敷物の「坐具」と飲み水をこす「漉水嚢(ろくすいのう)」を加えて「六物」という。このような修行に必需の僅かな品が元々の「道具」であった。『華厳経』に「無分別の功徳を修す道具」とあるように、道具は修行を達成するという目的のために利用するものだったのである。
 現代人にとって不可欠な道具といえば、何よりもケータイやパソコンが挙げられる。ところが、このツール(道具)としてのパソコンにハマる「ネット依存症」の若者が多いという。明確な価値観を持たず、目標や将来像を描けないままケータイやインターネットに依存しているとすれば「無分別の功徳」を修するという本来の「道具」から大きく逸脱したものとなるであろう。

Home > 読むページ > 生活の中の仏教用語 > 道具

PAGE TOPに戻る

ここからサイトの主なメニューです