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生活の中の仏教用語

生活の中の仏教用語 - [210]

安心

「安心」
泉 惠機(いずみ しげき)(助教授 仏教と人権)

 「安心」は、仏教では「あんじん」と読みならわし、恐怖や不安から解放され、心安んじて生きていける境地をいう。そのような世界が開かれることを、信心、信仰の証しとし、たとえば「安心の宅に至る」(『教行信証』証巻)などとも言う。また、仏徳の一つとして「 無畏 ( むい ) 」が説かれるようにおそれおののくことの無い境地を仏教は求めているのだと言ってもいいであろう。
 なぜこのような言葉で信仰の世界が表現されるのかと言えば、それだけ人間の世界は苦しみや不安や怖れに満ちているからであろう。
 不安や怖れをもたらすものは、たとえば病気や貧しさや戦争などであろうが、それらを無くすることによって不安や苦しみを解消しようとするのでなく、病や戦争のただ中に身を置いたまま、その不安や苦しみを転換するという方向が、仏教の基本的な立場である。
 病はついに根絶し得ないし、人間の支配欲は暴力をもってでも他を制服せんとして際限がない。また病や貧困は不幸であり、富や健康は幸福をもたらすという一種の迷信が、さまざまな似非「宗教」を生み出している。
 しかし、蓮如が「 病患 ( びょうげん ) をえて、ひとえにこれをよろこぶ」(『御文』)というような世界が確かにあるのだ。そうでなければ、老いて病のうちに死んでいくのが普通である人間は、皆な不幸のうちに死んでいくことになろう。病や貧困の中で、それを受け容れ、それを引き受けていく、徹底した「安心」の世界があるのである。何を怖れることもいらぬ「無畏」なる世界である。
 しかし、だからと言って病や貧困や戦争を無くそうとする努力を無視し軽蔑することも仏教の世界のものではない。
 すでに貧困や戦争がある。新たな病が次々と起こる。公害もあり、差別や性の略奪もある。そこに悲しみや苦しみ、不安や怒りがある。そして、それゆえにそれらの無い世界を求める心や努力の底に、末通った「安心」を求める命のうずきがある。それを無視することは仏の教法を無 ( な ) みするものであり、同時にそれは人間の人間たる世界を崩壊させることになるだろう。

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