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生活の中の仏教用語

生活の中の仏教用語 - [204]

天

「天」
泉 惠機(いずみ しげき)(助教授 仏教と人権)

 この言葉は、日本でも中国でも用いられているが、意味は広い。
 中国では人間を支配する「天帝」の意に使われている。また、日本では「天」の世界といえば、望むものは何でも手に入り、満足に満ちたすばらしい世界のように思われている。このことは、日常生活で「天にも昇る思い」などと使われていることからもうかがえる。
 仏教の世界観では、人間が輪廻を繰り返す「六道」のひとつにすぎない。人は迷いの世界にいる限り、六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天)を廻り続けるという輪廻思想は、悪行を重ねると死後には地獄、あるいは畜生に生まれ、善行を重ねると天に生まれ替わるなどと説くが、それはブッダ以前からのインド思想が強く影響しているからである。
 しかし、この「六道輪廻」も死後の世界としてではなく、生きている私の有り様を言い当てる言葉であると見れば、強い迫力で迫ってくるのを感じる。たとえば常に他に依存して生きている(傍生=畜生)のではないかといわれると、内心をかえりみてギョッとせざるを得ない。
  では、同様にこの私が生きている迷いの世界としての「天」の有り様とはどのようなものであろうか。それは私たちの欲望が一旦満たされた世界であると言えるだろう。豊かな生活。おいしい食べ物を食べ、好きなファッションに身をつつみ、こぎれいな家に住み、マイ・カーで時々お出かけ。こんな世界だと言ってもいいかもしれない。
 しかし、『倶舎論』には「天人五衰」ということがあると説く。なぜ「天」の世界に五つもの衰えがあるのかといえば、人間の欲望には際限がなく、その本質に於いて真に満たされることがないからである。六道の頂点にある「天界」ではあるが、所詮は迷いの世界の中なのである。
 また、五衰の中心は、「本坐を楽しまず」(不楽本坐)である。それは、今、ここに生きている事実そのこと(本坐)、つまり、いのちそのものに満足し得ない、ということを説いている。
 一人ひとりがそれぞれのいのちに喜びを、満足を感じ得ないとすれば、それこそは何より怖れるべきことではないだろうか。

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