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生活の中の仏教用語

生活の中の仏教用語 - [196]

阿鼻(無間)地獄

「阿鼻(無間)地獄」
一郷正道(いちごう まさみち)(教授 仏教学)

 地震や洪水などの大災害の惨状を“阿鼻叫喚“と表現することがあるのはこの語がもとである。
 阿鼻はサンスクリットaviciの音写語で、無間と訳される。無間とは苦しみが間断無いことをさす。
 仏教では、我々人間の住むこの世界も輪廻の一境涯であると説く。死後、天界に、又、地表の餓鬼・畜生或いは再び人間として、あるいは地下の地獄の境涯に生まれるとする。
 いずれの境涯に転生するかは、行為は必ず結果を生み、しかも自業自得であるとする因果の法則に従うのである。すなわち、善業が好ましい安楽な結果を生み、悪の行為から好ましからぬ結果が生ずる。こうして成立する輪廻の世界は、道徳的善悪の世界である。
 元来、地獄の思想、信仰は、チグリス・ユーフラテス河流域に起源をもち、インドへ入りその観念が鮮明になった。死者の王ヤマ(閻魔)が死者の行為を裁き、罪人が種々の苦しみを受ける、という。この死後審判の思想が仏教にもとり入れられた。
 地獄説の内容、展開は、経論により複雑多岐であるが、日本では平安中期の源信が『往生要集』に詳しく説いた八大地獄の説が一般的である。
 それによると阿鼻地獄は一番下層にあり、父母殺害など最も罪の重い者が落ちる。そこへの落下に二千年も要し、四方八方火炎に包まれた、一番苦痛の激しい地獄である。
 その罪人が歎じている一句がある。

我今無所帰 孤独無同伴
(我、今帰する所なく孤独にして同伴なし)
 これは、現代人の孤独地獄を予見しているかの如き描写ではないか。
 我々現代人は、今生において、また死後において帰るべき所、迎えてもらえる場所を確保しているであろうか。真の同伴者にめぐりあえているであろうか。そうでなければ、地獄の住人とかわらないのである。
自然環境との共生を断ち、心から喜び悲しみを共有できる家族、他者との命の連帯を忘れているかに見える我々に、命のふるさとがあるであろうか。命を物質扱いし、過度の競争社会で自己確立を目ざした我々の往き先は、阿鼻地獄であろうか。

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