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生活の中の仏教用語

生活の中の仏教用語 - [188]

舎利

「舎利」
一郷 正道(いちごう まさみち)(教授 仏教学)

 寿司に口うるさい人の「ここの舎利は何々産だからネタもいきる」などと銀舎利にまでこだわるセリフを耳にすることがある。この「舎利」が本来何を意味するのかを知っていて通人ぶる人はかならずしも多くはないであろう。
 「舎利」は、梵語「シャリーラ」の音写で、身体、構成要素、死体を意味し、複数形で使われると遺骨を意味し、とくに、仏、聖者の遺骨をさして言われる。おそらく、仏、聖者の遺骨の尊さ、白さに因んで白米がそのように呼ばれることになったのであろう。それにしても、寿司屋さんが舎利と生物をにぎって出し、客がこの舎利は上等だ、などという日本語表現はおもしろい。「舎利」は世阿弥作の能楽曲にもある。
 仏陀釈尊のご遺体は火葬に付され、そのご遺骨が八部族の仏弟子たちに分配された。そのできごとを「舎利八分」と言うことは『涅槃経』の伝えるところである。そのうちの一つ、カピラヴァットゥ国にもたらされたものが一八九八年フランス人ペッペによって発掘され、釈尊の歴史的実在性を証明する有力な証拠になったことは有名な話である。そして、仏舎利を崇拝、供養するために、舎利塔(仏塔)や舎利殿が建立され、舎利会(講)が営まれることになった。
 釈尊滅後の無仏の世、しかも仏像がまだ製作されなかった状況にあっては、仏陀との再会、仏陀からの教えにより解脱を希求する信者にとって「舎利」は、舎利信仰、仏塔崇拝において格好の礼拝対象であった。はじめは在家信者たちの管理下にあったそれへの崇拝は、のちに出家者も加わり一層盛んになっていった。
 一方で、西紀前後から後一世紀半ばにかけて成立したとされる『八千頌般若経(はっせんじゅはんにゃきょう)』は、仏塔崇拝を批判し、智慧の完成(さとりの境地)を説く経典崇拝のほうがより多くの福徳を獲得できる、と強調した。それは、仏の身体ないし舎利を生み出す根源の全知者性(一切智)、智慧の完成こそが、仏陀崇拝の対象になるべきものであることを教えるものであった。
 現在の日本の仏教徒に、仏法聴聞よりも墓参りの姿を多く見るのは舎利信仰の影響であろうか。

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