ここからサイトの主なメニューです

Home > 読むページ > 生活の中の仏教用語 > 遊戯

生活の中の仏教用語

生活の中の仏教用語 - [185]

遊戯

「遊戯」
木場 明志(きば あけし)(教授・日本近世近代宗教史)

 おゆうぎ室は、幼児たちが走り回る広い遊び部屋。遊戯(ゆうぎ)とは、読んで字のごとく無邪気に遊び戯(たわむ)れること。しかし、遊戯場となると、大人のためのパチンコ店などをいい、遊び戯れるとはいっても少し違う。「ゆうぎ」の語義の発展は賭け事を指すまでに及んでいる。このように、遊戯するのは子どもばかりに限らない。
 遊戯を「ゆげ」「ゆけ」と読むのは古典で、遊び楽しむこと、楽しく思うことをいう。『栄花物語』には、

女君心よからぬ御けしきなれど、
男君それをもしらず顔にて、ゆげしおぼいたる様もをかし。
と、若い男の態度を示す用例もある。
 ところで、仏・菩薩も遊び戯れることがあり、仏教語では「ゆげ」と読んで、何ものにもとらわれずに自由自在なこと。そして、仏の境地に遊ぶことをいう。
 興味深いのは、いま一つの語義の展開として、仏の境地にあって思いのままに救いのはたらきを行って楽しむこと、という意味があることである。思うに、それはインドの天親(てんじん)[世親(せしん)]が著わした『浄土論』が典拠のようだ。そこでは、浄土に往生した後に得る功徳(くどく)の一つとして、すべての人びとを浄土に導く「園林遊戯地門(おんりんゆげぢもん)」があると説く。めでたくあの世への往生が果たされてからは、生死(しょうじ)の園林という言い方で表わされるこの世に再び姿を現じ、自在に人びとを導き浄土に往生させることを楽しむのだという。これは、心にまかせて超能力的になされるので、遊戯神通(ゆげじんづう)とも表現される。遊び戯れるがごとくに救済を楽しむとは、何と素晴らしい発想かと感心してしまう。
 親鸞作の『正信偈(しょうしんげ)』は、インド・中国・日本に浄土教を伝えて親鸞に強い影響を与えた七人の僧を讃える。天親については、「阿弥陀仏の浄土に往けば、煩悩(ぼんのう)に満ちたこの世に遊戯神通を発揮し、生死のことについて迷うこの世に、人びとを救うために姿を現わすことができる」と説いたと賞する。
 「遊戯」には、浄土教の願いが託されてきた。先に往生した者が仏となり、思いのままに後の者を救って、順次にすべての人びとを救い尽くすことを理想とする願いが。

Home > 読むページ > 生活の中の仏教用語 > 遊戯

PAGE TOPに戻る

ここからサイトの主なメニューです