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生活の中の仏教用語

生活の中の仏教用語 - [183]

業

「業」
一郷 正道(いちごう まさみち)(教授・仏教学)

 仏教の「業」は、(一)行為をおこす前の意志作用、(二)身体、言語による行為そのもの、(三)その行為の残存効果、という三を内容とし、その順序で展開する。単に「行為」(梵語カルマン)という語だけでは表現しきれない。ともあれ、心(意志作用)から業は生じ、その業の結果として私の世界が形成される。
 ところで、「この現実(私の世界)は、私の業のせいだからしょうがない」といったせりふをよく耳にする。それは慨嘆、後悔、あきらめの気持の表明であり、暗いひびきを奏でる。
 「この現実は、私の業のしからしむるところだ」という表現は正しい。自業自得、自己責任性がはっきり表明されているからである。受験に失敗したのは私が不勉強だったからであって、社会、先生、家庭のせいではない。責任転嫁を許さないのが業の理論である。
 自業自得の道理をわきまえた上での「しょうがない」との発言であれば、暗いあきらめでおわることはない。かならず現実からの展開があるはずだ。
 というのも、不勉強の結果生じた好ましくない果が未来にまで継続する、とは仏教の業論はいわない。未来の果は、現在いかに行動するかにかかっている、と教える。その場合、不勉強という原因は道徳的には悪であろう。しかし、失敗というその結果は、好ましくないことではあるが、悪ではない。合格という好ましい果を得た者が高慢ちきになればそれこそ悪である。逆に、失敗が逆縁になれば善である。悪因苦果、善因楽果であって、悪因悪果、善因善果ではない。そして、失敗という好ましくない果をバネにして新たに行動をおこした結果、 卒業時には、 合格した人よりはるかに好ましい果を得るということはよくみられるところである。
 従って、「しょうがない」をあきらめの運命論としてしまうか、それをバネにして未来へ展開をはかるかは、全く私個人の問題である。仏教の業論は、決して運命論の論理的根拠ではなく、明るい未来を生みだす理論を提供するものであるといえよう。

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