生活の中の仏教用語 - [172]
「一味」
一楽 真(いちらく まこと)(助教授・真宗学)
「いちみ」と聞いて、何が思い浮かぶだろうか。うどんにかける一味なら、口の中に広がるピリッとした味を思い出すかもしれない。強盗団の一味となれば、なんだか物騒な響きがただよってくる。現在でもいろんな使われ方をしている言葉である。
仏教では、ブッダの説法が一味であるといわれる。それは、時や場所、相手によって多様な説かれ方をしていても、その本旨が変わらないことを意味している。
ブッダは、人を生まれや能力や経歴によってわけへだてすることは決してなかった。それぞれが調和し合いながら、輝いて人生を尽くしていく道を説き続けた。それはブッダが、誰もが何ものにも代えられないかけがえのない存在であることを見抜いていたからである。
この意味で、ブッダの説法が一味であるのは、私たちが本来は一味の世界を生きているからなのである。
仏典には、どれほど味の違う河の水であっても海に入れば一味となる、という譬えもある。実際、海に流れ込んだ河の水が「俺は元は○○河だ」と主張することはない。一味の海を自分自身としているのである。
優劣や役に立つ・立たないといった価値づけによって、存在のかけがえのなさが見えにくくなっているのが現代である。働ける・働けないといった労働力としてのみ人間を評価することも起こっている。それは、人間の損得勘定だけでは計れない一味の世界を知らないからだ。
大風呂敷を広げたような話になるが、この世界には三〇〇〇万種を超える生物が棲んでいると言われる。その中で人類、すなわちホモサピエンスはただの一種類である。その一種類の生き物が、人種、民族、文化、宗教などの違いを主張して、争いを繰り返している。これもまた一味の世界を知らないことに由る。
狭い世界で自己主張ばかりに明け暮れるのではなく、広やかな一味の世界に目を開くことが大事ではなかろうか