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生活の中の仏教用語

生活の中の仏教用語 - [166]

長広舌

「長広舌」
一楽 真(いちらく まこと)(助教授・真宗学)

 長広舌をふるうと聞いて、さわやかな弁舌を思う人はほとんどいないであろう。古くは弁舌が巧みであることを表す場合もあったが、最近では単に長々としゃべることの代名詞のようになってしまっている。
 この言葉、もともとは仏にそなわる勝れたすがたとしての三十二相の一つ、広長舌相(こうちょうぜっそう)に由来している。仏の舌は広くて長く、しかも軟らかいために、その顔を覆うことができるという。
 大きいから立派だ、という話ではない。実際に顔全体を覆っている舌などを見たら、びっくりするだけである。これは仏の説く言葉が広く響きわたることを広く長い舌の相(すがた)によって表しているのである。 『仏説阿弥陀経』には、次のように記されている。東・南・西・北・下・上という六方、つまりあらゆる方角の世界に無数の仏がおいでになる。その無数の諸仏がたは、おのおの広長の舌相を出して全世界を覆い、まことの言葉を説かれると。
 お互いに通じ合い、響き合うのがまことの言葉である。たとえ厳しい一言でも、言い当てられたという実感が伴うならば、それは忘れられない言葉となり、人のこころを動かすことにもなる。それが本当の軟らかさだといえよう。
 また、広長といわれるように、仏の言葉はどこまでも響きわたり、一人として漏れ落ちる者がない。それは、この世の苦しみ悩みを見つめ続けているからである。
 ひるがえって我々の言葉はどうであろうか。たとえ共通の言葉を用いながらも、通じ合うことはなかなか難しい。言葉によって、人を切り捨てていることも多い。人の心を開くどころか、お互いに、孤独という名の地獄に堕ちているのではなかろうか。
 通じ合うことのない言葉での長広舌は聞くに耐えない。にもかかわらず、饒舌、悪舌、両舌ばかりが渦巻いているのが現代である。本当の意味で、広く、軟らかく、長い舌をもちたいものである。

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