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生活の中の仏教用語

生活の中の仏教用語 - [163]

兎角

「兎角」
佐藤 義寛(さとう よしひろ)(助教授・中国文学)

 「智に働けば角が立つ、情に棹(さお)させば流される、意地を通せば窮屈だ。兎角この世は住みにくい。」
 夏目漱石『草枕』の冒頭の一節である。この「とかく」に「兎角」という漢字を用いるのは、いわゆる当て字であり、最近はあまり見られない使い方である。一方こうした当て字の「兎角」とは別に、由緒ある「兎角」ということばも存在する。漱石先生には申し訳ないが少し智を働かせてみよう。
 いうまでもなくウサギという動物にはツノなどあるはずがない。そこで中国の伝統的古典籍では、ありえないこと、起こりえないことのたとえとして、この言葉を用いる。もちろん絶対ないかというと、時にはあるかもしれないと考えたようで、『述異記』という書物には、「大亀に毛を生じたり、兎に角を生ずるのは、兵乱のきざしである。」というような記事も見える。この亀に毛が生えるというのも、兎角と同じ比喩で、通常「兎角亀毛」と熟して用いられる。
 一方仏典においても、この比喩はよく用いられる。たとえば「言葉は妄想であって、兎角亀毛のようなものである。」(『楞伽経(りょうがきょう)』)とか「補特伽羅(ふどがら)(輪廻の主体たる人間)は兎角亀毛のごときものである。」(『毘婆沙論(びばしゃろん)』)というように、その使用例は数多い。
 こうした仏典に用いられる例をみてみると、その根底には物質的精神的を問わず、世の中に存在するすべてのものは空である、という考え方が横たわっているように思われる。 この一切皆空の思想がいかに仏教にとって重要であるかは、その比喩表現の多彩さからもうかがい知ることができる。曰く、水中の月、虚空の花、鏡中の像、空中の鳥跡等々。
 この世は兔角のようなもの。一切皆空である。だとしたら何をあれこれと思い悩む必要があろう。そう悟れたなら漱石先生も「兎角この世は住みにくい」などと、つぶやかずに済んだのではないだろうか。

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