生活の中の仏教用語 - [162]
「縁起」
小川 一乗(おがわ いちじょう)(教授・仏教学)
「縁起」とは「すべての存在は無数無量といってよい程の因縁によって在り得ている」という、仏教の基本思想を表す重要な用語であるが、私たちの日常において用いられている仏教語の中で、これほど誤解されて用いられている言葉も珍しい。 その代表的なのが「縁起がよい、縁起が悪いと、縁起をかつぐ」という用いられ方で、吉凶の前兆として縁起という言葉が用いられていることである。どうしてこのようになったのであろうか。それは同じく縁起という言葉であっても、「縁起絵巻」といわれる場合のように、寺社などの由来・沿革・起源という意味で用いられる縁起という言葉とすり替わって、その由来などという意味が吉凶の前兆という意味となったことによるのであろうか。
しかし、そこにはもっと基本的な人間の問題があるのではなかろうか。仏教における縁起とは、私たちは因縁によって存在するのであって、それらの因縁を取り除いたら「私」と言われる確かな存在は塵垢ほどもないという意味である。それを「無我」というのであるが、それをそのように正確に了解せず、この私がたくさんの因縁を頂いて生かされているという通俗的な意味で了解されてしまったからではなかろうか。そうであれば、自分の都合だけを求めているこの私が先に存在しているのであるから、自分の都合のよい因縁だけを願うのは当然である。福は内、鬼は外となる。そこに縁起がよいとか悪いと「縁起をかつぐ」という構図がでてくる。
いうまでもなく、仏教の基本思想でいう縁起とは、私が先に存在しているのではなく、無量無数の因縁が私となっている、無量無数の因縁によって私が成り立っているという意味であるから、福も内、鬼も内である。福と鬼が私となっているという意味である。それがいつの間にか、縁起が吉凶の前兆を意味する、自分の都合を願う言葉になっいているとすれば、仏教の大切な教えすらも、自分に都合よく理解しようとする人 間の本質が見えてくる。