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生活の中の仏教用語

生活の中の仏教用語 - [161]

流通

「流通」
一楽 真(いちらく まこと)(講師・真宗学)

 地球が小さくなった、そんな風に思わせるほど、諸外国との間は近くなり、情報に関してはリアルタイムで飛び込んでくるほどになった。誰もが便利さと、同時に忙しさも感じているのが現代のすがたではないか。
 そんな中、流通(りゅうつう)といえば、ほとんどの人がお金や物資が往き来することを思い浮かべるであろう。しかし、元来はお金などに限ったことではなく、物事が流れる水のように広くゆきわたることを流通は意味している。仏教では「るづう」と読む。
 たとえば、経典を解釈する時には、古くから三つの部分に分けて読まれてきた。すなわち、序分(じょぶん)と正宗分(しょうじゅうぶん)、そして流通分(るづうぶん)である。この流通分は仏の教えが世に広く伝わることを課題としている。つまり、仏の教えが広くゆきわたることを「流通」という言葉に託してきたのだ。
 『大無量寿経』というお経がある。その流通分には、釈尊が自分が入滅した後の世を見通して、灯(ともしび)とすべき教えを説かれている。それは苦しみ悩んでいる者が、一人も漏れることなく、生まれてきた喜びを取り戻すことができるようにという願いからきている。その根には、国が違っても、時代が変わろうとも、苦悩をもち、お互いに傷つけ合っていく人間の在り方が見据えられていると言ってよい。
 考えてみれば、人間は未来を見通す眼がないままに、いつも目先のことに追われ、場当たり的に事をやり過ごしてきたのではなかろうか。そのためにどれほどの過ちを繰り返してきたか分からない。本当に過ちを重ねないためには、自らの過ちを見つめた上で、次の世代に何を伝えていくかが一番の問題となるはずである。
 便利さと物質的豊かさの追求によって現代社会は膨らんできた。それがはじけているのに、なおも膨らまそうとするのは愚かなことである。私たちが本当に流通すべきことは何か、それを考える時期にきている。

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