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生活の中の仏教用語

生活の中の仏教用語 - [155]

冥加

「冥加」
一楽 真(いちらく まこと)(講師・真宗学)

 冥加といっても、最近は生活の中で耳にすることはほとんどない。冥加金といえば、少しは聞き覚えがあるかもしれない。お寺や神社などに奉納するお金のことである。神仏に対する謝礼をお金で表わしたものだが、それがなぜ冥加と言われているのだろうか。
 冥という字は、「冥福を祈る」とか「冥土のみやげ」という言葉があるように、あの世を連想させる。しかしながら、もとは「くらい」という意で、はっきりと知られないことを指している。つまり、知らず知らずに与えられている神仏の加護や、さまざまなおかげ、それを冥加というのである。
 私たちはどんな時に「おかげさま」と感ずるだろうか。ほとんどの場合が、自分の願いが叶った時ではなかろうか。しかも、自分が直接に知っている事柄に対してだけ、おかげさまと感ずる。きわめて狭い範囲しか見ていない。
 ところが、生きているということは実に多くのことに支えられている。日頃は特に意識することもないが、私たちは他の生き物のいのちを食べて生きている。動物たちばかりではなく、植物たちからも、さらに言えば、水や空気からもいのちをもらっている。
 この事実を忘れて、自分だけで生きているように思うならば、それは傲慢というほかはない。自分に都合の良いものは利用し、都合の悪いものは排除する、そんな生き方になっていくのではなかろうか。実際、現代の人間中心の文明は、自然を利用することのみに走り、感謝を忘れてしまっているように見える。
 あの蓮如も言っている。「いよいよ冥加を存ずべき」と。無数の縁に支えられ、育てられていることを知りなさい、というのである。冥加ということを教わらなければ、人間中心の発想がどれほど狭く、傲慢であるかに気づくことはできないのである。
 この意味で、冥加とは、自分の願い事を叶えるために神仏に期待することではない。すでに支えられていたことへの感謝が込められた言葉なのである。

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