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生活の中の仏教用語

生活の中の仏教用語 - [112]

解脱

「解脱」
寺川 俊昭(てらかわ しゅんしょう)(教授・真宗学)

 ちかごろ、解脱ということばを、おりおり眼にする。この解脱は、すっかり生活のことばの中に定着しているが、しかしなお仏教の用語としての本来の意味を、かなり色濃く保っていることばの一つであろうか。
 解脱ということは、字を見ても分かるように、人間を縛っているさまざまなものから解放される、ということである。もともとインドの宗教一般で、修行の目ざすものを表すことばであった。仏教はそれをうけ継いで、“悟り”にかかわる大切なものを表すことばとして、積極的に磨いていったのである。だからそこには、仏教の独特の人間理解がある。
 人間を縛っているものがある、といった。けれども、何が人間を縛っているのだろうか。そこが仏教の面白いところであるが、人間の激しく動く感情と、底知れぬ欲望と、暗い愚癡と、一言でいえば煩悩と、それが引き起こす尽きることのない苦悩と。それが人間を縛って、自由を失わせているのだと、鋭くも洞察したのである。
 そうだとすれば「人間とは何か」という、真剣に人生を考えるときに避けて通ることのできない問いに対して、仏教は「煩悩にまみれて生きるもの」という、まことに興味ある人間理解を示していることになる。富と物とに対する飽くことのない欲望も、その空しさを指摘されても止むことはない。人を自分の思うようにしようとする我儘な要求も、権力と名誉に対する固執も、いくら非難されても捨てはしない。怒りと憎しみ、果ては怨み、さらには他人と自分とを比較して起こす劣等感と優越感、これがどんなに人間を苦しめるかを知っても、止めることができない。
 これが、「人を束縛するもの」と理解された煩悩が乱舞するすがたである。ふと、このような人生に、底知れない空虚さと無意味さを感じたものが、いまさらのように真剣に求めるもの、それは、この煩悩から解放されて、自由の主体となることではなかろうか。解脱とは、人間のこの深い要求を表したことばである。

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