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生活の中の仏教用語

生活の中の仏教用語 - [110]

蓮華

「蓮華」
大内 文雄(おおうち ふみお)(助教授・東洋史学)

 片かなでレンゲと書くと、春の点景として欠かせない蓮華草であろう。一面のレンゲ畑を見ると、子供ならずとも、思わずその中に入って行きたくなる。また、冬の鍋物などに必ず附きものの散蓮華(ちりれんげ)も「れんげ」と略して言われることが多いように、日々の生活に連想して使われることの多いこの言葉も、もとは文字通り蓮の華のことであり、本来は仏教に密接なつながりを持っている。それが、遠くインドに起源を発し、仏教とともに広く東アジア全域に広まったのには、根は泥の中にありながらもその汚濁に染まることなく、清浄の花を開くその姿に、清々しい超俗のありようが象徴されると思われてきたからである。
 このような”蓮華“は、また仏教の普及につれて、仏教美術の中にも表現されている。仏教美術のデザインとして最もポピュラーなものに蓮華文があり、これなどは今も梵鐘の撞木(しゅもく)が当たる撞座のところに使われたり、また古刹の軒丸瓦に用いられていて、御存知の向きも多いだろう。勿論、仏像や菩薩の像に、蓮弁を描いた蓮台は不可欠のものであるし、蓮地は極楽浄土に聳える宮殿楼閣の前面に広がる池として、浄土教美術に欠かせない。
 一方、蓮の華には様々な色があり、紅蓮(ぐれん)と言えば、紅蓮華、真っ赤な蓮のことを言う。しかし紅蓮という言葉は、日本人には色彩そのものを指す言葉として馴染まれ、紅蓮の炎、のように使われて、地獄図や六道絵に描かれる猛炎がまさにそれである。
 これに対し、我々がよく知っている白い蓮華は、梵語を音写して分陀利華(ふんだりけ)と記される。経典の中には仏を念ずる者を誉め称えて、「この人は人々の中の分陀利華である」『観無量寿経』と書かれている。それは純白の蓮華の中に、清澄な自立した姿を見ているからである。
 我々が使う蓮華という言葉は、このように多様に使われている。けれども、春の田や畑を彩るレンゲを摘み、花輪を作りながら、その中を走りころげるおさない子供たちの姿にこそ、蓮華という言葉に託された、仏教の本質に最も近いものがあるのではなかろうか。

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