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生活の中の仏教用語

生活の中の仏教用語 - [109]

転生

「転生」
寺川 俊昭(てらかわ しゅんしょう)(教授・真宗学)

 ちかごろ、遠藤周作氏原作の映画「深い河」をみた。それぞれに数奇な運命をたどった人たちが、何か心ひかれるものを感じてインドに集まるという筋だてであるが、その中に妻を癌で亡くした男がいる。彼は妻の最後のことば、「どうか私を探してください。私は必ず生まれ変わってこの世にいますから。」が忘れられなくて、妻への深い愛ゆえに、妻の面影を求めてインドまできたのであった。
 そのような、人の命は“この世”で生きられるだけでなくて、いわゆる“現世と来世”にわたって生きられるとする生命理解は、存外広く、さまざまな文化の伝統の中で共有されている。例えば私であった一つの生命が、その死後に別の誰かとなって、あるいは別の生命体となって生き続けることを、“転生”という。あの映画でも、そして現代の臨死体験などで語られる場合でも、死をくぐっての転生は、むしろ肯定的に理解されることが多いようである。
 転生する生命がそれぞれに生きる世界が、やがて中国で整った形をとってイメージされてきた。いわゆ六道である。地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六つの世界に、生命はその行った善悪の行為によって転生を続けていくという、生命理解である。これが“六道輪廻”である。
 仏教の正統的立場は、この六道に輪廻し転生する生命のあり方を、肯定するのではない。反対に、克服すべき“迷い”の中にある命とみた。地獄は苦痛にみちた無残な世界であり、天上界は幸福にみちた境界であるけれども、その天上界は救いの実現した“浄土”でもなく、善悪の行為に縛られた輪廻転生を超えた“涅槃”の世界でもない。
 仏教は生死を解脱する道をこそ求める。はてしない輪廻を肯定し、転生を求めるのではない。輪廻し転生する生命のあり方を、無残な迷いと観るのである。そして輪廻の束縛からの解放を“解脱”として求め、輪廻し転生する生命、すなわち “生死する命”の超越を、“涅槃”として求め続けるのである。

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