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生活の中の仏教用語

生活の中の仏教用語 - [098]

地獄

「地獄」
大内 文雄(おおうち ふみお)(教授・東洋史学)

 地獄の沙汰も金次第、という。これをモチーフにした咄に“地獄八景”がある。上方落語の大ネタで、鳴物入りの何とも賑やかな咄だから、ご存じの方も多いだろう。鯖にあたって知らぬ間に地獄にやってきた男、この世で放蕩を尽くした挙句、フグを喰<くら>って地獄巡りと洒落込んだ若旦那の一行、果ては釜ゆでや針山やらの地獄を渡り歩く四人組が出てくる咄である。金次第の場面での抱腹ものとしては、川向こうにあるという念仏町であろう。裁きを受ける前に、ここで効験<ききめ>抜群の念仏を買っておけば、少々の罪は助かるとかで、真宗・浄土宗は勿論、日蓮・真言、果ては天理からキリストまで、値段もピンからキリまで揃っている。それで亡者は手頃な値段の念仏を買い求め、いよいよ閻魔の庁にやってくる.....。
 地獄草紙や六道絵に描写されるいかにも凄惨な地獄とは異なり、“地獄八景”の笑いの世界は、寺院や信仰を離れたところで地獄がどのように受け止められているか、よく伝えてくれている。
 さて、閻魔の政庁は、最高裁判所のようなもので、その門は落語の中では荘重な鉄<くろがね>の門として表現されている。しかし、その奥に鎮座する閻魔の姿形については、想像にまかされ表現されていないが、聴き手の頭には中国風の冠とゆったりした官服を着て重々しく坐っている閻魔の姿が思い描かれるであろう。現に奈良・白亳寺の閻魔王像や、その眷属の冥官である太山王(泰山府君)、人の寿命をつかさどり、人の功徳と罪過との記録を任務とする地獄の官僚である司命・司録の像など、あるいは京都・二尊院の十王図に描かれている中国古来の冥官達は皆、宋様式と呼ばれる中国風の姿をしている。
 地獄という言葉は、梵語奈落迦<ナラカ>の訳で、元来は幸いのない、苦しみのみの世界を意味しているに過ぎない。それが中国に至り地底の獄界として表現され、凄惨なイメージを実体化したものとして膨らまされてきたものであろう。さらに日本に至って、因果応報の獄界として定着していく。
 しかし、先の落語世界の軽やかさは、権威を持ってせまってくる勧善懲悪や倫理道徳を躱<かわ>す、庶民の健康な精神が現れていると思われる。

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