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生活の中の仏教用語

生活の中の仏教用語 - [089]

意地

「意地」
吉元 信行(よしもと しんぎょう)(教授・仏教学)

 「意地」という言葉は、一般に、自分の思うことを通そうとする心という意味に使われている。日常、「横綱の意地にかけて」「男の意地」などという使われかたもあるが、だいたい「意地を張る」「意地を通す」「意地になる」、あるいは、「意地悪」など、「強情」と同義で、どちらかといえば、あまり良くない意味に使われているようである。
 「意地」はもともと仏教用語であり、人間の五官による認識、(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識)の次にくる第六意識(心)のことである。それは、あらゆるものを成立させる根源になる大地のようなものであるとされている。人間の心は、ちょうど大地のように、あらゆるものを生み出し、またおさめる無限の可能性をもっている。
 しかし、人は、人間関係において、どうしても自分中心にものを考えるものである。その心が日常語でいういわゆる“意地”という感情を生み出し、それが思うようにならないとき、被害者意識がはたらき、怨みが発生し、そこに紛争が起こってゆく。
 そのように、心は思い通りにならないということは、人間の歴史始まって以来の大きな問題であったろう。ブッダも、もちろんこの問題に真正面から取り組み、人生が思い通りにならないこと(苦)の生起する原理(縁起の理法)を発見した。ブッダは心について次のように説いている。

遠くさすらい、独り行き、形もなく、洞窟に隠れた、この心を制御する人は、魔王の束縛より脱する。(『ダンマパダ』第三七偈)
 仏教は、まさにこの心の制御の道を教えるものである。人間の心を分析すると、誰にもあるたえず自己を愛してやまない領域の深層意識から、思い通りにならない心(意地)が生じ、それによって人生の様々なトラブルが発生していく。そのような紛争をもたらす自分の心をコントロールする方法を追求していくのが仏道である。その心を制御するのも、大地のような心に他ならない。
 今日、いわゆる意地によって様々な紛争が起こっているが、実は、意地という言葉そのものの奥に、自らの心の制御という紛争解決の鍵が隠されているのである。

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